ディエゴ・コロンの妻マリア・デ・トレド・イ・ロハス(1490年頃 - 1549年5月11日)は、1506年にスペインで死去しセビリアに納められていた義父コロンブスの遺骸を、ディエゴ死去後の1542年にサントドミンゴに移送して改葬した。マリアの父フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(Fernando Alvarez de Toledo)は、初代ビリョリア(Villoria)卿で、その父(マリアの祖父)は初代アルバ公爵ガルシア・アルバレス・デ・トレド(García Álvarez de Toledo)、母(マリアの祖母)はガルシアの最初の妻マリア・デ・ロハス(María de Rojas)であった。ディエゴとマリアの間には、以下の子どもたちが生まれた[2]。
クリストバル・コロン・デ・トレド(Cristóbal Colón de Toledo, 1510年頃 - 1571年) - はじめはマリア・レオノール・レルマ・デ・スアソ(María Leonor Lerma de Zuazo)と結婚したが子ができず、次いでアナ・デ・プラビア(Ana de Pravia)と結婚して子をもうけ、さらにマリア・マガダレーナ・デ・グスマン・イ・アナヤ(María Magadalena de Guzmán y Anaya)と結婚し、子をもうけた。
フランシスカ・コロン・デ・トレド・イ・プラビア(Francisca Colón de Toledo y Pravia, 1550年頃 - 1616年4月) - バリャドリッド県メディナ・デル・カンポ生まれのディエゴ・デ・オルテゴン(Diego de Ortegón, 1550年頃 - ?)に嫁ぎ、子供たちをもうけた。子孫は後に、ディエゴ・コロンの地代徴収権、役職、称号を継承し、同じくディエゴ・コロンの子孫にあたる他の血統と婚姻関係を結ぶこともあった。当代のベラグア公爵である海軍大将クリストーバル・コロン・デ・カルバハル・イ・ゴロサベル(Cristóbal Colón de Carvajal y Gorosábel)、その妹で歴史家であるアヌンシアーダ・コロン・デ・カルバハル(Anunciada Colón de Carvajal)[4]、休業期間をはさんで復帰した女優ピラール・ロペス・デ・アジャラは、いずれもフランシスカの子孫である。
マリア・コロン・デ・トレド・イ・グスマン(María Colón de Toledo y Guzmán, 1550年頃 - ?) - ルイス・デ・アビラ(Luis de Avila)に嫁ぎ、息子クリストーバルを生んだ。
クリストーバル・デ・アビラ・イ・コロン(Cristóbal de Avila y Colón, 1579年 - ?) - 結婚せず、子孫を残さなかった。
フアナ・コロン・デ・トレド(Juana Colón de Toledo, ? - 1592年頃) - 従兄弟にあたるルイス・デ・ラ・クエバ・イ・トレド(Luis de La Cueva y Toledo)と結婚し、ひとり娘マリア・コロン・デ・ラ・クエバ(María Colón de la Cueva, 1548年頃 - 1600年頃)をもうけた。マリアはベラグア公爵位を要求したが果たせず、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)で没した[5]。
イサベル・コロン・デ・トレド(Isabel Colón de Toledo, 1515年頃 - ?) - 初代ヘルベス伯爵(Condado de Gelves)ドン・ホルヘ・アルベルト・デ・ポルトガル・イ・メロ(Dom Jorge Alberto de Portugal y Melo, 1470年 - ?)に2番目の妻として嫁ぐ。ヨルヘの先妻ドナ・ギオマール・デ・アタイーデ(Dona Guiomar de Ataíde)は、子どものないまま死去していた。ヨルヘの父ドム・アルバロ・デ・ブラガンサ(Dom Álvaro de Bragança)は、ポルトガル王国の大臣で、テントゥガル(Tentúgal)、ポボア(Póvoa)、ブアルコス(Buarcos)、カダバル(Cadaval)の領主、母はその妻ドナ・フィリパ・デ・メロ(Dona Filipa de Melo)であった。ホルヘとイサベルの間に生まれた子どもたちは、ディエゴ・コロンの地代徴収権、役職、称号を継承し、後にそれを失った。また、同じくディエゴ・コロンの子孫にあたる他の血統と婚姻関係を結ぶこともあった。