チンカイ・バルガスン

チンカイ・バルガスン
Чинкай балгас
チンカイ・バルガスンの位置(モンゴル国内)
チンカイ・バルガスン
チンカイ・バルガスンの位置
所在地 ゴビ・アルタイ県, モンゴル国
座標 北緯46度12分55秒 東経95度13分41秒 / 北緯46.21528度 東経95.22806度 / 46.21528; 95.22806

チンカイ・バルガスン(モンゴル語: Činqai Balγasun)とは、モンゴル高原西方にチンギス・カンの命を受けたチンカイによって築かれた都城。現代モンゴル語発音に従って、チンカイ・バルガスとも表記される。『元史』などの漢文史料では鎮海城/鎮海八剌喝孫(八剌喝孫(バルガスン)は「城」の意)と表記され、附近に開拓された屯田は称海屯田、現地の行政府は称海宣慰司と呼ばれた。周辺には大規模な屯田が開拓され、カラコルムを始めモンゴル高原の食糧供給を担った。当初は西方遠征の補給基地として建設されたが、13世紀末には主に「カイドゥの乱」に対する大元ウルスの軍事基地として用いられた。

その所在地については多くの研究者によって様々な説が唱えられてきたが、21世紀に入って日本モンゴル共同プロジェクト(ビチェース・プロジェクト)の調査・研究により現在のモンゴル国のゴビ・アルタイ県シャルガ郡で発見されたハルザンシレグ遺跡がチンカイ・バルガスンの遺構であることが明らかにされた。

沿革

チンギス時代

『元史』巻120チンカイ伝によるとチンカイに城(チンカイ城)建設の命が下ったのは1212年壬申)のことであり[1]、建設者の名をとってチンカイ・バルガスン(バルガスンは城の意)と名付けられたという[2][3]。1212年はチンギス・カンの金朝遠征真っ只中のことであったが、チンカイ城の建設は既に西方への進出を視野に入れたものであったと考えられている。実際に、モンゴルのホラズム・シャー朝征服でチンギス・カンが補給地として用いたオルホン河畔(後のカラコルム)・チンカイ城・イルティシュ河畔カヤリクはほぼ500〜600km(当時のモンゴル軍の1カ月の行軍距離)ごとに位置しており、チンギス・カンが早い段階からかなり計画的に西進ルートを設定・整備していたことが窺える[4]

この頃のチンカイ城についてはほとんどの史料に言及がないが、例外的に豊富な記録を残しているのが『長春真人西遊記』である。全真教道士であった丘処機(長春真人)はモンゴル帝国からの庇護を受けるべくチンギス・カンの下を訪れようとしたが、時にチンギス・カンは中央アジア遠征中であり、結果として丘処機は華北からサマルカンドに至る大旅行を行うことになった。この丘処機の旅程の記録を弟子の李志常が纏めたのが『長春真人西遊記』で、そこには往路と復路で2度チンカイ城を訪れたことが記されている。

(訳文)南に向い大なる峡谷を出ると、一水流が西に流れ、雑木の林が山の南側に映じ、にらが香気を発して茂っている。渓谷の路を行くこと数十里にして、北に故城址があり、 曷剌肖(ウリヤスタイ)と言う。西南行して沙漠を二十里ほど進んだが、水草は極めて乏しかった。次に始めてウイグル人が溝渠を掘って麦畑に潅漑してるるのを見た。また五、六日目に山嶺を越えて南に進み、モンゴル人の宿営に泊まった。朝早く出発したが、南の方には山脈が連なり、山嶺には雪を頂いているのが見えた。……駅伝の吏の言うところによると、この雪山の北は、田鎮海のバルガスンであると言う。バルガスンとは中国の言葉では城である。その中には倉庫があるので、また倉頭とも言う。七月二十五日、漢人の工匠たちが絡繹として迎えに来て一同歓呼して拝礼し、彩色した幟と天蓋と香花とを持続って先導した。また一人は徒単氏、他は夾谷氏と言う。金の章宗の二妃と漢の公主の母である欽聖夫人哀氏が泣いて相迎えた。……翌日、阿不翠山の北で鎮海が出迎えたのに会った。

(原文)南出大峡、則一水西流、雑木叢映于水之陽、韭茂如芳草、夾道連数十里。北有故城曷剌肖、西南過沙場二十里許、水草極少、始見回紇決渠灌麦。又五六日、踰嶺而南、至蒙古営、宿拂廬。旦行、迤邐南山、望之有雪、因以詩紀其行……郵人告曰、此雪山北、是田鎮海八剌喝孫也。八剌喝孫、漢語為城。中有倉廩、故又呼曰倉頭。七月二十五日、有漢民工匠絡繹来迎、悉皆歓呼帰礼、以彩幡・華蓋・香花前導。又有章宗二妃、曰徒単氏、曰夾谷氏、及漢公主母欽聖夫人袁氏、号泣相迎、顧謂師曰……。翌日、阿不罕山北鎮海来謁。 — 『長春真人西遊記』巻上、訳文は岩村1948,39頁より引用

『長春真人西遊記』はチンカイ城の具体的な地理を記したほとんど唯一の史料と言ってよく、多くの研究者から注目されてきた[5]。後述するように、ハルザンシレグ遺跡の発掘・調査も『長春真人西遊記』の記述を確認する形で行われている。

チンギス・カンによって中央アジアが完全にモンゴル帝国の支配下に入ると、西方遠征の補給基地として建設されたチンカイ城の存在意義は薄れ史料上に現れなくなる。チンカイ城が再び軍事・政治的重要性を高めるのは帝位継承戦争に始まるモンゴル帝国内部の混乱と、中央アジアにおけるカイドゥの自立以後のことであった。

クビライ・テムル時代

チンカイ・バルガスンの重要性を再び高めたのが、いわゆる「カイドゥの乱」と、それに続く「シリギの乱」の勃発であった。当初、中央アジアでクビライに叛旗を翻したカイドゥの勢力はクビライを脅かすほどのものではなかったが、1276年に起こった「シリギの乱」によってモンゴル高原を巡る情勢は一変した。「シリギの乱」そのものは比較的短期間で鎮圧されたものの、叛乱に参加していたモンケ家のウルス・ブカアリクブケ家のヨブクルメリク・テムルらがカイドゥの下に投じた結果、カイドゥの勢力圏はモンゴル高原西部まで広がり、直接モンゴル高原に侵攻することが可能となった。この頃の大元ウルスとカイドゥ・ウルスの対立は従来アルタイ山脈を挟んだ東西対立であったと考えられてきたが、チンカイ城の位置特定によって寧ろ南北対立であったと現在では考えられている[6]

事態を重く見たクビライは配下の諸将をアルタイ山脈一帯に配置し、皇族をこれらの軍団の総司令に抜擢したが、歴代の総司令が駐屯地としたのがチンカイ城であった。最初にアルタイ方面軍の総司令に抜擢されたのはクビライの庶子のココチュで、『集史』「クビライ・カアン紀」にはココチュを始めとするアルタイ方面軍の配置状況が記録されている。これらの軍団が実際にどの辺りに駐屯していたかは長らく不明であったが、ココチュの駐屯地=チンカイ城の位置が明らかになったことで大凡の位置が判明した。大元ウルスのアルタイ方面軍は、最も北(現在のホブド県ムンフハイルハン郡一帯)にオングト部のコルギスが駐屯し、その南の「アライ峠」(現在のウランダヴァー一帯)にチョンウル率いるキプチャク軍が駐屯し、その南(現在のゴビ・アルタイ県トンヒル郡一帯)にナンギャダイ軍が、更にその南で総司令官(ココチュ/カイシャン)がチンカイ城に駐屯する、という形であったと考えられている[7]。なお、1300年(大徳4年)には一時的にチンカイ屯田が廃止されてに新たに屯田が開拓されてもいる[8]

これらの軍団がアルタイ方面の防備を固めたためクビライ時代にはカイドゥ軍による大規模な侵攻は減ったが、クビライの次に即位したオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の時代に情勢は大きく流動した。チンカイ屯田に農具が支給された[9]翌年の1297年(元貞3年)、カイドゥ・ウルスの有力諸王ヨブクルウルス・ブカがチンカイ城方面に投降し[10]、これを祝して大元ウルスは元貞から大徳に改元した。この一件を境にカイドゥ・ウルスは一転して攻勢に出で、1298年(大徳2年)にはアルタイ方面軍の諸将が集まって宴会をしていた所をチャガタイ家のドゥア軍が奇襲し、アルタイ方面軍は大敗を喫した上、将軍の一人コルギスが捕虜となる大事件が起こった。この事件を受けて朝廷はココチュを更迭し、代わってアルタイ方面軍の総司令に抜擢されたのがクビライの曾孫に当たるカイシャンであった[11]。カイシャンはココチュの跡を継いでチンカイ城に駐屯し、現地の六衛軍を配下に入れてカイドゥ軍と対峙した[12]

カイドゥ軍は1301年(大徳5年)に今ままでにない大規模な侵攻を開始し、これをカイシャン軍が迎え撃って大雪の最中[13]アルタイ方面で大規模な会戦が数度に渡って繰り広げられた(テケリクの戦い)。この遠征に従軍した将軍の一人ナンギャダイはこの会戦の最中チンカイ城を通過したことが記録されており[14]、この数度にわたる会戦はチンカイ城からほど近い場所で行われたものと考えられている[15][16]。この会戦でカイドゥは撃退された上、この時受けた傷が元で程なく亡くなってしまい、カイドゥの死にともなってカイドゥ・ウルスは瞬く間に解体されてしまった。

1306年(大徳10年)、カイドゥ・ウルスから独立を果たしたドゥアとカイシャンの挟撃によって遂にカイドゥ・ウルスは滅亡したが(イルティシュ河の戦い)、今度は数十万にのぼる多数の投降将兵の管理のためチンカイ城は機能するようになった。『元史』にはこの頃チンカイ城の位置するアルタイ山北麓に投降した将兵が集中して牧地不足に陥ったこと、その結果チンカイ城では投降将兵の生活が困難になったこと[17]が記録されている[18]

14世紀以後

カイドゥ・ウルスの解体後も捕虜の収容のためしばらくチンカイ城は機能していたが、敵対勢力の消失にともなってその重要性は次第に低下していった。オルジェイトゥ・カアンの死後、新たに即位したカイシャン(武宗クルク・カアン)は嶺北等処行中書省の下にチンカイ(青海)等処宣慰司都元帥府を設け[19]、これによりチンカイ城は行政上省都カラコルムに次ぐ都市として正式に位置づけられた[20]。しかし、「カイドゥの乱」終結は着実にチンカイ城の軍事的・政治的重要性を低下させており、まず1310年(至大3年)にはチンカイ城のイェケ・ジャルグチが廃止された[21]

クルク・カアンの後に即位したブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)の治世にもマスウード(馬速忽)なる人物が経理としてチンカイ屯田に派遣されたこと[22]や、漢軍がチンカイ屯田に駐屯したこと、チンカイ屯田に牛2000頭が支給されたことなど[23]が記録されており、依然としてチンカイ城は機能していた。また、1319年(延祐6年)には晋王(ジノン)家の貧民がチンカイ屯田に移住したことが記録されており[24]、この頃チンカイ城はモンゴリアを総べる晋王家の勢力下にあったと考えられている[25]

ブヤント・カアンの死後、ゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)の即位直後(1319年/延祐6年)にはチンカイ屯田・五条河屯田が再設置されたが[26]1323年(至治3年)には遂にチンカイ宣慰司・チンカイ万戸府が廃止となり、チンカイ屯田総管府が残るのみとなった[27]。これ以後、「称海屯田万戸府達魯花赤」の帖陳なる人物がフレグ・ウルスアブー・サイードの下に使者として派遣されたこと[28]などを除いて、チンカイ城・チンカイ屯田はほとんど史料上に現れなくなる。

しかし、これ以後もチンカイ屯田が完全に放棄されたわけではないようで、ウカート・カアン(順帝トゴン・テムル)の治世の末期、イルティシュ川河畔で叛乱を起こしたアルグ・テムルに対する討伐軍はチンカイ城に駐屯し、そこで軍勢を徴発している[29]。また、明朝を建国した朱元璋(洪武帝)が1372年(洪武5年)にモンゴリアに残残する北元に遠征軍を派遣した際、北元の敗残兵がチンカイ城に拠って明軍と対峙したことが記録されており[30]、少なくともこのころまではチンカイ城の軍事施設としての機能は残存していたと考えられている[20]。だが、この後チンカイ城が史料上にあらわれることは全くなくなり、21世紀に発掘調査が行われるまでその位置はわからなくなってしまっていた。

経済

チンカイ屯田一帯の気候については『長春真人西遊記』に「この土地では夏に雨が極めて少く、時に雷雨があっても多くは南北の雨山の間に降る……この地の住民は常に河水を引いて田畑や果樹園を潅漑している。八月に米麦が始めて稔るが、雨がこれを潤すことはない。秋には地鼠が害をなす。此の地鼠には白色のものが多い。此の地の寒気は甚しく、植物の質が結ぶのは遅い。五月には未だ河岸の土は一尺除で、その下にはまた一尺ばかりの堅氷が張っている……[31]」とあるように寒冷かつ少雨で必ずしも穀物栽培に適したものではなかったが、モンゴル人の不断の努力により数万人分の糧食を賄えるほどの規模を備えていた。例えば、1314年(延祐元年)には大寧路(現在の遼寧省一帯)で飢僅が起こった際に、遠く離れたチンカイ屯田から穀物が輸送されたことが記録されている[32]

国朝文類』巻25「丞相順徳忠献王碑」にはチンカイ屯田の具体的な生産量が記されており、1308年(至大元年)には年間20万余りの収穫があったという[33]。同時代には軍士1人あたりの月額支給額が3斗であったという記録もあり、単純計算で約5万人、多少割り引いても2-3万人の軍士を1年間養えるだけの収穫があった[34]。実際にチンカイ城に配備された人員数はクビライ時代に既に1万人を数えており、現地軍団は統廃合の末に1320年代には「屯田万戸府」が設置されて戸数は4,648、耕地面積は6,400頃あった[35]。なお、先述した『長春真人西遊記』には工匠がチンカイ城に居住していたことが記されているように、多数の工匠も居住していた。既にチンギス・カンの時代から「工匠総管」が設置されており、これらの工匠によってチンカイ城は糧食のみならず武器の供給も可能な第一級の軍事基地としての機能を有していた[25]

また、チンカイ城はモンゴル高原に設置された駅伝路(ジャムチ)の結節点でもあり、 1295年(元貞元年)にはチンカイ城に駐屯する六衛漢軍によってテレゲン道、モリン道、ナリン道という主要3道の補修がなされている[36]。チンカイ城がこの一帯の貿易拠点であったという記録もある[37]

軍事

前述したように、元代前半においてチンカイ城は対カイドゥ・ウルスの戦争を指揮する総司令官(カマラ、ココチュ、カイシャン)の拠点として用いられていた。このようなチンカイ城の重要性は「カイドゥの乱」の最初期から注目されており、叛乱が勃発した1270年(至元7年)には早くも皇太子チンキムがチンカイ城を巡検している[38][39]

先述したようにチンカイ城を中心とするアルタイ山一帯には多数の軍団が駐屯していたが、特にチンカイ屯田には「六衛軍」と呼ばれる軍団が駐屯していたことが記録されている。この「六衛軍」とはカアンの身辺を守る侍衛親軍の内、最初期に設置された左衛・右衛・中衛・前衛・後衛・都威衛の「六衛」の総称で、漢人・女直人・契丹人といった旧金朝領の住民を主体とする軍団であった。「六衛軍」は本来カアンの親衛隊として京畿を守る軍団であるが、「シリギの乱」勃発時にモンゴリアに派遣されて以来、カラコルム・チンカイといった地で屯田しつつ駐屯地の防衛を行っていた[40]

カイシャンの北方派遣が決定された1298年(大徳2年)、4-5年に渡ってチンカイ屯田に駐屯して疲弊した六衛軍の兵士2000名余りが交替となり[41]、更にカイシャンがチンカイ城に到着した1299年には附近の「五条河漢軍」がチンカイ屯田に編入されることになった[42]。これらの政策はチンカイ屯田の防衛力強化と生産力拡大を目的としたものであり、カイシャンはこのような六衛軍を配下に入れることでチンカイ屯田における屯戍と軍糧供給の結合したシステムを掌握したのだと考えられている[12]

また、チンカイ城の豊富な軍備は敵軍の標的ともなっており、実際にカイドゥ軍の侵攻によってチンカイ屯田に住まう屯田民がしばしば拉致されている[43]。そのため、チンカイ城の備蓄をまもるための「守倉庫軍」が存在していたこと、この「守倉庫軍」が1301年(大徳5年)に一度交替していることが記録されている[44][45]

関連項目

脚注

  1. ^ 『元史』巻120列伝7鎮海伝,「壬申……命屯田於阿魯歓,立鎮海城戍守之」
  2. ^ 『圭塘小藁』巻十「元故右丞相怯烈公神道碑」,「承命闢兀里羊歓地、為屯田且城之。因公名名其地、曰鎮海又曰称海
  3. ^ 大葉1982,82頁
  4. ^ 白石2017,182-183頁
  5. ^ 大葉1982,83-85頁
  6. ^ 村岡2003,36-42頁
  7. ^ 村岡2016,91-93頁
  8. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳四年二月]甲戌……罷称海屯田、改置於呵札之地、以農具・種宝給之」
  9. ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[元貞二年]二月乙亥朔……給称海屯田軍農具」
  10. ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[大徳元年]三月庚寅……賜諸王薬木忽児及兀魯思不花金各百両、兀魯思不花母阿不察等金五百両、銀鈔有差。賜称海匠戸市農具鈔二万二千九百餘錠、及牙忽都所部貧戸万錠、別吉韂匠万九百餘錠」
  11. ^ 『元史』巻108諸王表,「懐寧王海山、大徳八年封、出鎮称海。十一年立為皇帝」
  12. ^ a b 松田1982,3-6頁
  13. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年秋七月]癸亥……称海至北境十二站大雪、馬牛多死、賜鈔一万一千餘錠」
  14. ^ 『元史』巻131列伝18嚢加歹伝,「武宗在潜邸、嚢加歹嘗従北征、与海都戦于帖堅古。明日又戦、海都囲之山上、嚢加歹力戦決囲而出、与大軍会。武宗還師、嚢加歹殿、海都遮道不得過、嚢加歹選勇敢千人直前衝之、海都披靡、国兵乃由旭哥耳温、称海与晋王軍合……」
  15. ^ 大葉1982,90頁
  16. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳六年]九月乙未、遣阿牙赤・撒罕禿会計称海屯田歳入之数、仍自今令宣慰司官与阿剌台共掌之」
  17. ^ 『元史』巻177列伝64呉元珪伝,「呉元珪、字君璋、広平人……武宗即位……詔発軍万人屯田称海以実辺、海都之乱、被俘者衆、至是頗有来帰者、饑寒不能存、至鬻子以活」
  18. ^ 大葉1982,89頁
  19. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年秋七月]癸酉、罷和林宣慰司、置行中書省及青海等処宣慰司都元帥府・和林総管府」
  20. ^ a b 大葉1982,91頁
  21. ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[秋七月]庚寅、罷称海也可札魯忽赤」
  22. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[至大四年六月]丁巳……命和林行省右丞孛里・馬速忽経理称海屯田」
  23. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[皇慶元年二月]丁卯朔……勅称海屯内漢軍存恤二年……丙子、給称海屯田牛二千」
  24. ^ 『元史』巻26仁宗本紀3,「[延祐六年十一月]庚子、勅晋王部貧民二千居称海屯田」
  25. ^ a b 大葉1982,87頁
  26. ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「[延祐七年五月]己丑……復置称海・五条河屯田」
  27. ^ 『元史』巻28英宗本紀2,「[至治三年二月]辛卯……罷称海宣慰司及万戸府、改立屯田総管府」
  28. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定元年春正月]丁未、以称海屯田万戸府達魯花赤帖陳假嶺北行中書省参知政事、近侍忽都帖木児假礼部尚書、使西域諸王不賽因部」
  29. ^ 『元史』巻206列伝93叛臣伝,「阿魯輝帖木児知国事已不可為、乃乗間擁衆数万、屯于木児古兀徹之地、而脅宗王以叛……乃命知枢密院事禿堅帖木児等撃之。行至称海、起哈剌赤万人為軍……」
  30. ^ 『明太祖実録』洪武五年六月二十九日(甲辰)「左副将軍李文忠率都督何文輝等兵至口温之地……追至称海。虜兵又集、文忠勒兵拠険、椎牛饗士、縦所獲馬畜于野、示以閒暇。居三日、虜疑有伏、不敢逼、乃遁去。文忠亦引還……」
  31. ^ 『長春真人西遊記』「従来此地経夏少雨、縦有雷雨、多於南北両山之間。今日霑足、皆我師道蔭所致也。居人常歳疏河灌田圃、至八月禾麦始熟、終不及天雨。秋成則地鼠為害、鼠多白者。此地寒多、物晩結実。五月、河岸土深尺餘、其下堅冰亦尺許、斎後日、使人取之」
  32. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐元年夏四月]甲申朔、大寧路地震、有声如雷。丁亥、勅儲称海・五条河屯田粟、以備賑済」
  33. ^ 『国朝文類』巻25丞相順徳忠献王碑,「称海屯田廃弛。重為経理、歳得米二十餘万斛。益購工治器、択軍中暁耕稼者、雑教部落又浚古渠、漑田数千頃。穀以恒賤辺政大治」(大葉1982,85頁)
  34. ^ 大葉1982,85頁
  35. ^ 大葉1982,86頁
  36. ^ 『元史』巻58地理1,「和寧路……元貞元年、於六衛漢軍内撥一千人赴青海屯田。北方立站帖里干・木憐・納憐等一百一十九処」
  37. ^ 『国朝文類』巻54嶺北行省郎中蘇公墓誌銘,「数十年来、婚嫁畊植比於土著、羊牛馬駝之畜・射猟・貿易之利、自金山称海沿辺諸塞蒙被函照、咸安楽富庶、忘戦闘転徙之苦久矣」(大葉1982,86頁)
  38. ^ 『元史』巻115列伝2裕宗伝,「裕宗文恵明孝皇帝、諱真金、世祖嫡子也……[至元]七年秋、受詔巡撫称海、至冬還京」
  39. ^ 『元史』巻164列伝51王恂伝,「王恂、字敬甫、中山唐県人……及恂従裕宗撫軍称海、乃以諸生属之許衡、及衡告老而去、復命恂領国子祭酒」
  40. ^ 『元史』巻166列伝53王昔剌伝など(松田1982,5頁)
  41. ^ 『元史』巻99志47兵志2,「[大徳]二年正月、枢密院臣言『阿剌帯・脱忽思所領漢人・女直・高麗等軍二千一百三十六名内、有称海対陣者、有久戍四五年者、物力消乏、乞於六衛軍内分一千二百人、大同屯田軍八百人、徹里台軍二百人、総二千二百人往代之』。制可」
  42. ^ 『元史』巻100志48兵志3,「……成宗元貞元年、摘六衛漢軍一千名、赴称海屯田。大徳三年、以五条河漢軍悉並入称海」
  43. ^ 『滋渓文稿』巻22呉公行状,「初、世祖詔発軍士万人。屯田称海、以実辺。海都之役、被俘者衆」
  44. ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳五年]九月癸丑、放称海守倉庫軍還、令以次更代」
  45. ^ 白石2002,293頁

参考文献

  • 白石典之『モンゴル帝国史の考古学的研究』同成社、2002年
  • 白石典之「モンゴル国シャルガ遺跡群出土遺物について」『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究』平成17〜19年度科研報告書、2008年
  • 白石典之 編『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年
  • 松田孝一「カイシャンの西北モンゴリア出鎮」『東方学』第64輯、1982年
  • 村岡倫「モンゴル西部におけるチンギス・カンの軍事拠点」『龍谷史壇』第119・120合併号、2003年
  • 村岡倫「チンカイ・バルガスと元朝アルタイ方面軍」『13-14世紀モンゴル史研究』第1号、2016年