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ダニー・グレーブス(Daniel Peter Graves、1973年8月7日 - )は、南ベトナムサイゴン(現ホーチミン)出身の元プロ野球選手。右投右打。ニックネームはBaby-faced Assassin。
2022年シーズン終了時点で、MLB史上唯一のベトナム出身選手。
父はアメリカ人、母はベトナム人。ベトナム戦争中に母がアメリカ大使館で働いていた時に軍人であった父と出会い、ダニーは米軍基地で生まれた。生後14か月でサイゴン陥落もあり家族でアメリカ合衆国に移住。移住後もダニーと兄弟のフランクは同級生にからかわれてベトナム語を放棄するまでベトナム語を話していた[1]。
フロリダ州のブランドン高校を卒業後、マイアミ大学に進学し野球奨学金も与えられた。大学時代からリリーフとして活躍し、3年時には防御率0.89、大学記録の21セーブを記録した。
1994年にクリーブランド・インディアンスからドラフト4巡目で指名され入団した。ドラフト指名されて2日後、カレッジ・ワールドシリーズ中に前十字靭帯を断裂した。
1年間のリハビリ後、1995年のインディアンスのマイナーリーグの投手の中で最高の投手となった。
1996年7月13日にはメジャー初登板を果たしベトナム出身者初のメジャーリーガーとなったが、2回3失点という結果だった。15登板で防御率4.55だった。
1997年7月にシンシナティ・レッズにトレードされた。
1998年から5年連続で60試合以上に登板し、レッズのクローザーとして大活躍した。
2000年にはオールスターにも初出場した。同年11月には日米野球で大リーグ選抜チームの一員として来日している。
また、2000年と2001年に唯一放った安打はどちらも本塁打となっており、これは唯一の記録である。
2003年に先発に転向した。26先発で4勝15敗と負け越した[2]。
2004年に再びクローザーに戻った。4月16日に、9回登板時サミー・ソーサに500本塁打となる本塁打を打たれた。その後2球を投じるとモイゼス・アルーにサヨナラ本塁打を打たれた。また2度目のオールスター出場を果たす(レッズの球団最多セーブ記録182セーブを保持している)。この年は41セーブを挙げた。
2005年シーズン当初の調子は良くなく、20登板で防御率7.36だった。レッズファンは注視し、頑としてブーイングを行い、5月23日には品位を乱す身振り(英語版)をダグアウト近くのファンに対して行ってからはグックと呼ばれるようになり、以降は監督デーブ・マイリー(英語版)により試合から連れ出された[3]。一連の事件後、早急にレッズから放出された[4]。
その後、2005年6月11日にニューヨーク・メッツと契約を結んだ[4]。メッツ移籍後も成績は上がらず、8月23日にDFAとなった。その後ウェイバーにかけられ、8月26日にAAA級(英語版)ノーフォーク・タイズに送られたが、ロースター拡張の段階でメジャーに復帰した。ノーフォークでは、5登板で0勝2敗防御率18.00だった[5]。
2005年12月19日にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結んだ。
2006年のスプリングトレーニングでは好投を続け、インディアンスのブルペンで位置を確保したが、開幕後13登板で2勝1敗防御率5.79だったため、5月12日にDFAとなった[6]。18日にバッファローにあるAAA級バッファロー・バイソンズに割り当てられた。バイソンズでは、防御率4.01で1勝1敗だった。
2006年12月19日にコロラド・ロッキーズとマイナー契約を結んだ[7]。
2007年シーズン開幕前の3月のスプリングトレーニング時に解雇される[8]。
その後の2007年シーズン中はアトランティックリーグのロングアイランド・ダックスでプレーを続け、リーグ最高のセーブを挙げた[9][10]。
2008年3月30日にミネソタ・ツインズと契約を結んだ。シーズンのほとんどをAAA級ロチェスター・レッドウイングスでプレーした[11]。シーズン後、FAとなった。
2009年1月にヒューストン・アストロズとマイナー契約を結んだ。3月25日に放出された[10][12]。
現在は120 Sports(英語版)、MLB.com、MLB Network Radio Sirus XM、ESPN Radioでアナリストを務めている。2018年にはシンシナティ・レッズ・ラジオネットワーク(英語版)で選択された試合のカラー解説を担当した[13]。
既婚者であり、2人の子供がいる。前妻からの連れ子が3人いる。
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