1913年7月16日
ジョン・ジョセフ・エバース (John Joseph Evers , 1881年 7月21日 - 1947年 3月28日 )は、アメリカ合衆国 ニューヨーク州 トロイ 出身のプロ野球選手 (二塁手 )。右投げ左打ち。
ニックネーム は"Crab" (カニ )。1906年 から1908年 のシカゴ・カブス のナショナル・リーグ 3連覇を支えた「ダブルプレー・トリオ 」の一人。
経歴
1902年 にカブスからデビューする。非常に小柄で、デビュー当時の体重は100ポンド(45kg)に満たなかったという小柄な選手だったが、当時監督をしていたフランク・セレー はエバースの攻撃的な守備を評価し、以後カブスのレギュラー内野手に定着する。1906年 からカブスはリーグを3連覇、ワールドシリーズも2度制覇する。
当時カブス内野陣(遊撃手ジョー・ティンカー 、二塁手ジョニー・エバース、一塁手フランク・チャンス )は見事な連携による併殺プレーを完成させていた。ライバルだったニューヨーク・ジャイアンツ の番記者が当時の新聞記事の端に短いポエムを掲載したのだが、このポエムの中の"Tinker to Evers to Chance "というフレーズが有名である。
エバースの有名なプレーは1908年 9月23日のニューヨーク・ジャイアンツ との優勝を争う試合での出来事である。この試合の9回裏の二死一塁三塁の場面からアル・ブリッドウェル (英語版 ) が中堅手 の前へ安打 を放ち、ジャイアンツのサヨナラ 勝利と思った瞬間、一塁走者のフレッド・マークル はこれに歓喜し、二塁ベースを踏まずにベンチへ下がった。エバースが三塁方向に転がっていた返球のボール をよこせ、と叫んだ。二塁ベース上に立つエバースはボールを受け取り、マークルが二塁を踏み忘れているという走塁ミスを指摘、二塁塁審のハンク・オーデイ にアピールプレイ を行った。このアピールは認められ、オーデイは一塁走者マークルのアウト を宣言した。既にファンはフィールドになだれ込み、試合再開は不可能となっていた。その後、公式戦終了時点でカブスとジャイアンツが同率首位となったために再試合が行われ、その試合でカブスはジャイアンツを下し、この年のナショナルリーグを制覇。次いでワールドシリーズ でもデトロイト・タイガース を破り、ワールドチャンピオンに輝いている。実はこの試合の3週間前に、カブスは対ピッツバーグ・パイレーツ 戦でこれと同じ目に遭っている。この時の二塁塁審も同じオーデイであった。当時の慣習として、一塁走者は二塁ベースを踏まずに帰ってしまうのが普通であり、エバースはオーデイに文句を付けた。そして、「今度同じプレーを見たらアウトにする」と確約を取り付けていたのである[ 1] 。
1914年 にボストンに移籍、打率は.279ながら最高守備率をマーク、リーグの最優秀選手に選ばれた。選手としての実働は1917年までで、以後1924年 にホワイトソックスの監督を務め、引退は1929年 。その後は、ボストン・ブレーブスのスカウトや営業支配人、マイナーリーグの監督などを務めていた。1946年 に、ベテランズ委員会 の選考によってアメリカ野球殿堂 入り選手に選出された。翌年の1947年 3月28日 、脳出血 で死去。
エバース戦法
日本ではバント の構えからバットを引くことを「エバース」という(今日ではあまり言われない)。この単語の由来はジョニー・エバースである。彼の考案した戦法で、バントの構えをして相手内野守備陣を前に誘導させる戦法をエバースシステム、またはエバース戦法と呼び、そこから取られたものであると考えられている[ 1] 。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度
球 団
試 合
打 席
打 数
得 点
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
塁 打
打 点
盗 塁
盗 塁 死
犠 打
犠 飛
四 球
敬 遠
死 球
三 振
併 殺 打
打 率
出 塁 率
長 打 率
O P S
1902
CHC
26
98
90
7
20
0
0
0
20
2
1
--
3
--
3
--
2
9
--
.222
.263
.222
.485
1903
124
497
464
70
136
27
7
0
177
52
25
--
11
--
19
--
3
27
--
.293
.325
.381
.707
1904
152
587
532
49
141
14
7
0
169
47
26
--
23
--
28
--
4
22
--
.265
.307
.318
.624
1905
99
389
340
44
94
11
2
1
112
37
19
--
20
--
27
--
2
20
--
.276
.333
.329
.663
1906
154
595
533
65
136
17
6
1
168
51
49
--
24
--
36
--
2
24
--
.255
.305
.315
.620
1907
151
565
508
66
127
18
4
2
159
51
46
--
14
--
38
--
5
17
--
.250
.309
.313
.622
1908
126
509
416
83
125
19
6
0
156
37
36
--
22
--
66
--
5
14
--
.300
.402
.375
.777
1909
127
552
463
88
122
19
6
1
156
24
28
--
12
--
73
--
4
18
--
.263
.369
.337
.705
1910
125
556
433
87
114
11
7
0
139
28
28
--
13
--
108
--
2
18
--
.263
.413
.321
.734
1911
46
195
155
29
35
4
3
0
45
7
6
--
4
--
34
--
2
10
--
.226
.372
.290
.662
1912
143
568
478
73
163
23
11
1
211
61
16
--
14
--
74
--
2
18
--
.341
.431
.441
.873
1913
136
524
446
81
127
20
5
3
166
49
11
18
24
--
50
--
3
14
--
.285
.361
.372
.733
1914
BSN
139
612
491
81
137
20
3
1
166
40
12
--
31
--
87
--
2
26
--
.279
.390
.338
.728
1915
83
349
278
38
73
4
1
1
82
22
7
8
21
--
50
--
0
16
--
.263
.375
.295
.670
1916
71
294
241
33
52
4
1
0
58
15
5
--
12
--
40
--
1
19
--
.216
.330
.241
.570
1917
24
98
83
5
16
0
0
0
16
0
1
--
2
--
13
--
0
8
--
.193
.302
.193
.495
PHI
56
219
183
20
41
5
1
1
51
12
8
--
6
--
30
--
0
13
--
.224
.333
.279
.612
'17計
80
317
266
25
57
5
1
1
67
12
9
--
8
--
43
--
0
21
--
.214
.324
.252
.576
1922
CHW
1
5
3
0
0
0
0
0
0
1
0
0
0
--
2
--
0
0
--
.000
.400
.000
.400
1929
BSN
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
--
0
--
0
--
0
0
--
----
----
----
----
通算:18年
1784
7212
6137
919
1659
216
70
12
2051
536
324
26
256
--
778
--
39
293
--
.270
.356
.334
.690
※数字の後の"*"は、記録不明の箇所があることを示す。
表彰
監督としての戦績
※順位は年度最終順位
年 度
チ | ム
リ | グ
試 合
勝 利
敗 戦
勝 率
順 位
備 考
1913
CHC
NL
155
88
65
.575
3位
選手兼任
1921
96
41
55
.427
7位
- 8月1日
1924
CHW
AL
124
51
72
.415
8位
- 5月14日 、6月19日 -
通算成績
375
180
192
.484
脚注
関連項目
出典・外部リンク
チャルマーズ賞 リーグ表彰 1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代