ジェフリー・アーノルド・ベック (Geoffrey Arnold "Jeff" Beck 、1944年 6月24日 - 2023年 1月10日 [ 1] )は、イングランド のギタリスト [ 2] 。
日本では、エリック・クラプトン 、ジミー・ペイジ と並ぶ3大ロック・ギタリストの一人とされている。『ローリング・ストーン 』誌の選ぶ「最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第14位、2011年の改訂版では第5位。
経歴
ジェフ・ベック・グループ時代 (1968年)
生い立ちと初期
1944年 、ロンドン 南方のウォリントン で中流家庭に生まれる。一家は両親と姉の4人暮らしであった。ジェフは地元の私立小学校に入学。この頃、母親によるピアノ や、叔父からのヴァイオリン のレッスンを受けたが挫折している。また叔父の影響で車に興味を持つようになる[ 3] 。12歳になるとジュニア・アート・スクールに通い始める。ロックンロール 、ロカビリー に興味を持ったベックは、友人から弦が3本しか張られていないガット・ギター を手に入れる。それに満足できなくなると、ベニヤ板を使い黄色いペンキを塗ったギターを作り上げた。のめり込むベックの姿を見て、ギターを嫌っていた両親は彼のギターを度々捨てていた。
当時のベックは、憧れであったバディ・ホリー の影響でエレキギター を求めていたが、経済的問題のために手に入れることが難しかった。しかし諦めきれなかったベックはストラトキャスターに似たボディとネックを知人と自作。ピックアップは万引きした物を取り付け、アンプ代わりにラジオに接続していた[ 4] 。
また、彼はフレットをつける際に適切な位置に配置する必要があることを知らず、大雑把に設置していた。そのためフレットを押さえても正確な音程を出すことが出来ず、度々チョーキング をして調節しながら演奏していた[ 4] 。
16歳になるとウィンブルドン・カレッジ・オブ・アート に入学する。ベックは学友達と最初のバンド、ナイト・シフトを結成し、地元のクラブへの出演を果たすようになる。1962年 、エプソム・アート・スクールに通っていた姉から、同校に在籍していたジミー・ペイジ のことを知らされ、意気投合する。まもなくベックはアート・スクールを退学、ナイト・シフトを解散し新たなバンド、トライデンツ を結成する。トライデンツで活動する傍ら、セッション・ギタリストとして様々なセッションにも参加している。トライデンツでの音源はアルバム『ベッコロジー (Beckology )』に3曲が収録されている。
1965年 、スタジオ・ミュージシャン としてセッションワークで多忙だったペイジに紹介される形で、エリック・クラプトン 脱退直後のヤードバーズ に参加。メンバーのキース・レルフ はベックとの初対面の印象を「ショックだったよ。ロン毛で、手がすごくベタベタなんだ。その男がいきなり部屋にはいってきた。さっきまで車の修理してました、みたいな」「ジェフがヤードバーズにやって来た時、みんなが気づいたのが彼の順応性というか、落ち着いて新しいことに対応できる才能。そんな才能を持った男がやって来た、と思ったんだよ」と語った[ 4] 。
シングル「ハートせつなく 」で初デビューを果たす。印象的なイントロのリフは元々シタール で演奏される予定だったが、スタジオに呼んだシタール奏者が4分の4拍子で弾くことに慣れておらず録音できなかった。そこでベックがまだ新しかったファズエフェクターに繋ぎ、ビブラートの加減でシタールの音を再現して弾いたところ、それが採用された[ 4] 。
ヤードバーズは1966年、ベースのポール・サミュエル=スミス が脱退、その後任としてペイジがベーシストとして加入。やがてベースをクリス・ドレヤ と交代したペイジは、ベックと2人でリード・ギターを担当、ヤードバーズはツイン・リード編成で活動、シングル「幻の10年 (Happenings Ten Years Time Ago) / Psycho Daises」を発表した。この時期にバンドはミケランジェロ・アントニオーニ 監督の『欲望 』に出演、この映画でベックはギターを破壊している。さまざまな活動やツアーを行いながらも次第にメンバー間の確執が表面化し、ついにはアメリカ・ツアー時にベックはステージを放棄し、12月中旬に健康上の問題を理由に脱退することとなる。
リーダーバンド期
ベック・ボガート & アピス (1973年)
ベック・ボガート & アピス時代 (1972年)
ヤードバーズ脱退後、ベックはミッキー・モスト とプロデュース契約を結び、ソロ・シングル「Hi Ho Silver Lining / Beck's Bolero」を発表する。この「Hi Ho Silver Lining」はヒットし、NME誌のチャートで17位を記録する。
その後ベックは自身の新たなバンドを結成する。このバンドは一般には「ジェフ・ベック・グループ」と呼ばれている[ 注釈 1] 。ボーカル にはショットガン・エクスプレス に所属していたロッド・スチュワート 、ベーシストがロン・ウッド [ 注釈 2] 、ピアニストがニッキー・ホプキンス [ 注釈 3] 、ドラマーがエインズレー・ダンバー [ 注釈 4] であった。バンドはこのラインナップでシングル「Tallyman / Rock My Plimsoul」を発表するが、ほどなくエインズレー・ダンバーが脱退、代わってミック・ウォーラー (Micky Waller )が加入し、アルバム『トゥルース 』を録音する。その後、メンバーの確執が表面化、1969年になってロン・ウッドとミッキー・ウォーラーが脱退。代ってドラムスがトニー・ニューマン (Tony Newman )に、ベースがダグラス・ブレイクに交代したが、ダグラス・ブレイクは短期間で解雇され、ロン・ウッドが再び加入した[ 3] 。セカンド・アルバム『ベック・オラ 』の発表と前後してニッキー・ホプキンスが脱退。さらにロン・ウッドがフェイセズ に加入するため脱退。ロッド・スチュワートも最終的にロン・ウッドと共にフェイセズに加入する。
その頃ベックは、ヴァニラ・ファッジ のティム・ボガート 、カーマイン・アピス と接近、彼らにロッド・スチュワートをボーカリストとして加え、新たなバンドを結成する予定であったが、直前の1969年 11月2日にカスタム・メイドのT型フォード を運転中ロンドン 南30マイルのメイドストーン で交通事故を起こし重傷を負い、3ヶ月の入院を余儀なくされる。この出来事により、新バンドの構想は白紙となってしまう。
怪我が完治したベックは新たなメンバーを集め、再び自身のリーダーバンドを結成する。このバンドは日本では「第2期ジェフ・ベック・グループ」とも呼ばれている。このグループはベースにクライヴ・チェイマン、キーボードにマックス・ミドルトン、ドラマーにコージー・パウエル 、ボーカルにボブ・テンチというメンバーであった。このバンドはジャズ やモータウンといったブラック・ミュージックからの影響を大きく受けており、それまでのブルース路線とは異なるものだった。
1971年 にアルバム『ラフ・アンド・レディ 』、翌年『ジェフ・ベック・グループ 』を発表し、その活動も好調に行われたものの、ベックは再びカクタス で活動していたティム・ボガートおよびカーマイン・アピスと接触。8月のアメリカ・ツアーで突如メンバーを変更して、第2期ジェフ・ベック・グループは空中分解してしまう。
バンドに残ったボガートとアピスに加えボーカリストとしてポール・ロジャース 招聘を図るもこれは失敗し、結局ボーカルはメンバーが兼任することにしてベック・ボガート & アピス として活動することとなる。ベック・ボガート & アピスは2枚のアルバム(スタジオ盤とライブ盤を1枚ずつ)を残し、1974年 にはベックとボガートの対立から自然消滅する。
なお、同年4月のパリ公演後にディープ・パープル を脱退(公式発表は6月)したリッチー・ブラックモア の後釜として候補に挙がっていたが、実際にはオーディションに至らなかったと言う経緯がある[ 5] 。
フュージョン期
オランダ・アムステルダム公演 (1979年7月)
翌1975年 、ビートルズ のレコーディングプロデューサー でもあったジョージ・マーティン をプロデューサーに迎え、当時流行していたフュージョン 色の濃い初のインストゥルメンタル・アルバム『ブロウ・バイ・ブロウ 』を発表。インストゥルメンタル・アルバムとしては珍しく、アメリカでゴールドディスクを獲得し、セールス面でも成功を収めた。また、同年リリースされたスタンリー・クラーク のアルバム『ジャーニー・トゥ・ラヴ 』に2曲でゲスト参加[ 6] 。
『ブロウ・バイ・ブロウ』発表の1年後、ナラダ・マイケル・ウォルデン (ドラム)やヤン・ハマー (キーボード)らを起用し、またしても全編インストゥルメンタルの『ワイアード 』を発表。ジャズ・ロック 的な要素を全面に出したアルバムとなった。1978年 から1979年 には、スタンリー・クラークと共に日本及びヨーロッパでツアーを行う[ 7] 。
1980年代 に入ると、同じくヤードバーズ出身のジミー・ペイジ、エリック・クラプトンと共に、A.R.M.Sコンサートに参加し、3人が共演。クラプトンと共に、シークレットポリスマン・コンサートで共演。アルバム『ハニードリッパーズ (The Honeydrippers )』に参加し、ジミー・ペイジ、ロバート・プラント と共演した。
1985年 に、アルバム『フラッシュ 』をリリースする。このアルバムではそれまでのスタイルから転換を図り、ナイル・ロジャース やアーサー・ベイカー をプロデューサーに迎え、ボーカル入りの曲を主体にして制作したアルバムである。収録曲「エスケープ」がグラミー賞 の最優秀ロック・インストゥルメンタル賞を受賞。中でも、インプレッションズ の「ピープル・ゲット・レディ 」のカバーで、旧友ロッド・スチュワート との共演がMTV などで話題になった。
エレクトロニカ、テクノロックサウンドに接近
カナダ・バンクーバー公演 (2001年2月)
ベック&タル・ウィルケンフェルド (2009年1月)
ロジャー・テイラー 、ベック&ジェイミー・モージズ (2013年5月)
1989年 のアルバム『ギター・ショップ 』は、グラミー賞 の最優秀ロック・インストゥルメンタル賞を受賞。その後は、ビッグ・タウン・プレイボーイズとのコラボレーション作『クレイジー・レッグス 』の発表や、「フランキーズ・ハウス」のサウンドトラック制作、セッション・プレイヤーとしての活動はあったものの、オリジナル・アルバムはしばらく発表しなかった。そして、10年の間隔を経て1999年 に『フー・エルス! 』をリリース。サイドギターにジェニファー・バトゥン を起用し、打ち込みを多用したテクノ サウンドがメインのアルバムとなった。本アルバム発表に併せて来日ツアーを行う。
『フー・エルス!』のリリースの1年後、テクノロック路線をさらに押し進めた『ユー・ハッド・イット・カミング 』をリリース。前年に引き続き来日ツアーを実施。来日時に久米宏 がメインキャスターであった『ニュースステーション 』にも生出演し、「ナディア」(オリジナルはニティン・ソウニー )を演奏している(ただし演奏は本番前に収録したものであった)。
さらに2003年 、自身の名前を冠した『ジェフ 』をリリース。プロ・ツールス を使用した大胆なドラムンベース を大幅に導入したアルバムとなった。
同年9月にロイヤル・アルバート・ホール でのデビュー40周年記念コンサートを行う。また同年インターネット上でのみ「オフィシャルブートレグ」というかたちで、ライブ・アルバム『Live at BB King Blues Club』を販売。この作品は2005年 の来日に併せて『ライブ・ベック! 』のタイトルで一般発売されている。1977年以来のライブ・アルバムとなり、「フリーウェイ・ジャム」や「スキャッターブレイン」といった往年の曲も収録されている。
2006年 は世界ツアーを行い、日本ではウドー・ミュージック・フェスティバル に参加。会場で発売されていたライブ・アルバムが後に『ライブ・ベック '06 』として発売された。
2008年 に3枚続けてのライブアルバムである『ライヴ・ベック3〜ライヴ・アット・ロニー・スコッツ・クラブ 』-Performing This Week... Live at Ronnie Scott'sを発売。2009年には、同じステージの様子を収録したDVD [ 注釈 5] も発売された。
2010年 、久しぶりのスタジオレコーディングによるアルバム『エモーション・アンド・コモーション 』を発表した。「テクノ三部作」と呼ばれた前三作とは違った穏やかな曲調が主体で、Joss StoneやImelda May,Olivia Safeの歌心が堪能できるアルバムである。2010年ワールドツアーのバンド・メンバーは、ソングライター・プロデューサーとしてグラミー賞を受賞したナラダ・マイケル・ウォルデン (ドラム)、ロンダ・スミス (ベース)、ジェイソン・レベロ (キーボード)が参加している[ 8] 。
2013年 には、ザ・ビーチ・ボーイズ のブライアン・ウィルソン の北米ツアーに参加[ 9]
。また、現在製作中のブライアンの新作アルバムにも参加している[ 10] 。
2016年 、デビュー50周年のアルバム『ラウド・ヘイラー』をリリースし[ 11] 、翌年に記念の来日公演[ 12] 。
2019年 のツアーのバンドメンバーは、ドラムがヴィニー・カリウタ 、ベースがロンダ・スミス、ボーカルがジミー・ホール、そしてチェリストのヴァネッサ・フリーバーン=スミス[ 13] 。
2020年4月16日、ジョニー・デップ とコラボしたジョン・レノンのカバー曲「孤独 」をニュー・シングルとして公開。これが2人の継続的な音楽的コラボレーションの初リリースであることを明かした。このシングルがCOVID-19パンデミックのロックダウン期間中にリリースされたことに触れ、「ジョニーと僕はしばらく前から一緒に音楽に取り組んでて、この曲は去年スタジオにいた時にレコーディングしたんだ。こんなに早くリリースするとは思ってなかったんだけど、この困難な時代に人々が経験してるすべてのつらい日々と真の "孤独 "を考えると、今が皆さんに聴いてもらうのに良い時期かもしれないと判断したんだ」と説明している[ 14] [ 15] 。
死去
2023年、細菌性髄膜炎 に罹患し、治療を行ったが1月10日に死去。訃報は公式Twitterにより家族から告知された[ 16] [ 17] 。78歳没。
使用機材
ギター
「フェンダー・エスクワイヤー 」 Beckモデル
ヤードバーズの在籍時及びその加入以前はフェンダーのテレキャスター やエスクワイヤー を使用している。ジェフ・ベック・グループではギブソン・レスポール スタンダードが使用ギターに加わり、第2期ジェフ・ベック・グループの頃はフェンダー・ストラトキャスター も使用している[ 3] 。
レスポールを弾くベック&イメルダ・メイ (2011年3月)
BBAからアルバム『ブロウ・バイ・ブロウ 』の頃までは1954年製のギブソン・レスポール “オックスブラッド”[ 注釈 6] を主に使用していたが、同時に他のギターも並行して使っている(1975年8月に日本で開催されたワールド・ロック・フェスティバルではオープニングでストラトキャスターを使い、途中でレスポールに持ち代えている[ 3] )。「哀しみの恋人達 」では、セイモア・ダンカン が改造した、ギブソン のハムバッカー ・ピックアップを2基搭載したテレキャスター(通称「テレギブ 」)を使用していた。また1980年の来日公演でのパンフレットにはローランド のGRギターシンセサイザー を使っている写真が掲載されている。
1985年 のアルバム『フラッシュ 』制作時期のごく短期間、スーパーストラトキャスター 量産モデルの草分けであるジャクソン・ソロイスト を使用していた。
2000年代 は自分用にモディファイされたストラトキャスターをメインで使っており、2007年のステージを収録したビデオソフト[ 注釈 5] ではストラトキャスター主体で演奏していることが確認出来る。
フェンダー社からはシグネイチャーモデル(と少数のマスタービルダー、カスタムショップ製)が販売されている。
シグネイチャーモデルは2001年 にアップデートされ、ピックアップがレースセンサー からベックモデル専用のカスタムワインドのセラミックノイズレス(ホット・ノイズレス)に、また、ストラトの歴史上もっとも太いといわれたネックがそれより薄い物に変更された。ジョイント部はヒールカットされ、指板はローズウッドが使われている。フレットは22フレットまで。ナットは初期にはウィルキンソン・ローラーナットが使われていたが、その後LSR製のローラーナットに変更された。ペグはシュパーゼル・ロッキングペグ、ブリッジは2点支持のシンクロナイズド・トレモロである。
アンプ/エフェクター
アンプはヤードバーズ加入当初はVOX社のAC30を使用していた。第1期ジェフ・ベック・グループではテレキャスターにマーシャル200ワットアンプと4つのスピーカー・キャビネットを組み合わせている。BBAではSUNNのコロシアム・アンプ・ユニット+ユニヴォックス社製スピーカーという組み合わせを使用していた[ 3] 。
第2期ジェフ・ベック・グループの「Short Business」や「Raines Park Blues」などではレスリースピーカー を使用してドップラー効果 を得るといった試みがなされている[ 3] 。
エフェクターの使用状況は時代によって変動しているが、ワウペダルは全時代を通じてコンサート、スタジオ共に使用している。特定の曲での使用例では、『ライヴ・ワイアー 』に収録された「シーズ・ア・ウーマン」や「フル・ムーン・ブギー」などでトーキング・モジュレーター が使用されている。また『ブロウ・バイ・ブロウ 』収録の「Air Blower」ではオクターバー・ユニットが使用されている[ 3] 。
以前はプロコ の「RAT」(ディストーション)を使っていたが、現在[いつ? ] はハンドメイドのオーバードライブペダルを使用している。
奏法
オーストラリア・メルボルン公演 (2009年1月)
フレージングは、ブルース やロックンロールを元にしたペンタトニック・スケール が基本になっている。
1980年代 以降は、フィンガー・ピッキング に移行する。アルバムでは1985年 の『フラッシュ』以降になるが、1983年 のアームズ・コンサート(ARMS Charity Concert )を収録したビデオ映像でも既にピックを使っていない[ 21] 。近年[いつ? ] のコンサートでは、「スキャッターブレイン」のテーマ部分でピックを使用して演奏している。ピックを使う場合はオルタネイト・ピッキング を主体としているが、その場合でも中指や薬指でのフィンガーピッキングを加えることがある[ 21] 。
ボリュームノブとトーンノブを頻繁に調整し、ピックアップの切り替えもよく行う。ボリューム奏法 やタッピング奏法 も比較的多く用いている。
曲目によってはスライドギター で演奏することもある。
トレモロアーム を多用する演奏スタイルであり(ストラトキャスターを使う一番の理由はトレモロアームがあるから、とベック自身が述べている[ 3] )、右手でアームを包み込み、親指のみでのピッキングで演奏することが多い。ビブラート をかけるだけでなく、アームダウンやアームアップも交えて演奏する。アームを使わず、掌で直接ギターブリッジを振動させて、ビブラートをかけることも多い。
ハーモニクス を多用する。
ヤードバーズに参加したばかりの頃は、マネージャーからの要請でエリック・クラプトンの奏法をそっくりそのまま真似ていたことがあった。
ブライアン・メイ は、「ジェフ・ベックを聴く度に僕のギター観は根底から覆される。彼の方法ないし逸脱は、思いもよらぬものだ」と評している。
ディスコグラフィ
アルバム
第1期ジェフ・ベック・グループ
第2期ジェフ・ベック・グループ
ベック・ボガート・アンド・アピス
ジェフ・ベック
ジェフ・ベック&ジョニー・デップ
日本公演
単独公演・ツアー
Beck, Bogert & Appice Japan tour (1973年)
Jeff Beck Japan tour 1978 (1978年)
Jeff Beck Japan tour 1980 (1980年)
12月4日 東京 日本武道館
12月5日 大阪 大阪府立体育館
12月8日 福岡 九電記念体育館
12月9日 倉敷 倉敷市民会館
12月10日 大阪 大阪フェスティバルホール
12月11日 名古屋 名古屋市公会堂
12月12日 仙台 宮城県民会館
12月14日 札幌 道立産業共進会場
12月16日 横浜 横浜文化体育館
12月17日・18日 東京 日本武道館
Jeff Beck Japan tour 1986 (1986年)
Jeff Beck Japan tour 1989 (1989年)
Jeff Beck Japan tour 1999 (1999年)
Jeff Beck Japan tour 2000 (2000年)
12月1日・2日・4日・5日 東京 東京国際フォーラム
12月7日 仙台 Zepp仙台
12月9日 横浜 パシフィコ横浜
12月10日・11日 大阪 大阪厚生年金会館
12月13日 福岡 福岡サンパレス
12月14日 広島 広島郵便貯金ホール
12月15日 名古屋 名古屋市公会堂
Jeff Beck Japan tour 2005 (2005年)
7月1日 横浜 神奈川県民ホール
7月2日・3日・5日・15日 東京 東京国際フォーラム
7月7日 広島 広島郵便貯金ホール
7月8日・9日 大阪 大阪厚生年金会館
7月11日 名古屋 名古屋センチュリーホール
7月13日 札幌 札幌厚生年金会館
Jeff Beck Japan tour 2009 (2009年)
2月6日・7日 東京 東京国際フォーラム
2月9日 東京 NHKホール
2月11日 横浜 パシフィコ横浜
2月12日 名古屋 愛知県芸術劇場
2月13日 金沢 石川厚生年金会館
2月16日 福岡 Zepp福岡
2月18日・19日 大阪 大阪厚生年金会館
Eric Clapton & Jeff Beck (2009年)
ジョイントライブ:エリック・クラプトン & ジェフ・ベック
2月21日・22日 埼玉 さいたまスーパーアリーナ
Jeff Beck Japan tour 2009 (2010年)
Jeff Beck Japan tour 2014 (2014年)
4月4日 東京 NHKホール
4月5日 尼崎 兵庫あましんアルカイックホール
4月7日・8日・9日 東京 東京ドームシティホール
4月11日 札幌 札幌ニトリ文化ホール
4月13日 盛岡 岩手県民会館
4月14日 横浜 パシフィコ横浜
4月15日 名古屋 名古屋市公会堂
4月16日 大阪 大阪フェスティバルホール
Jeff Beck Japan tour 2015 (2015年)
Jeff Beck Japan tour 2017 (2017年)
1月25日 横浜 パシフィコ横浜
1月26日 仙台 仙台サンプラザ
1月28日 盛岡 岩手県民会館
1月30日・31日 東京 東京国際フォーラム
2月2日 大阪 グランキューブ大阪
2月3日 福岡 福岡サンパレス
2月4日 広島 広島上野学園ホール
2月6日 名古屋 名古屋市公会堂
2月7日 尼崎 兵庫あましんアルカイックホール
フェス・アワード
ウドー・ミュージック・フェスティバル (2006年7月)
WORLD ROCK FESTIVAL EASTLAND (1975年)
8月3日 札幌 札幌真駒内アリーナ
8月5日 名古屋 愛知県体育館
8月6日 京都 京都円山公園 野外音楽堂
8月7日 東京 後楽園球場
8月9日 仙台 仙台菅生トレールランド
UDO MUSIC FESTIVAL 2006 (2006年)
BLUE NOTE JAZZ FESTIVAL in Japan 2015 (2015年)
クラシック・ロック・アワード (2016年)
関連項目
脚注
注釈
^ アルバムの正式な名義はジェフ・ベックであり、ツアーもジェフ・ベックの名義で行われた
^ 『ジェフベック 孤独の英雄伝説』によれば、当初ベースは元ザ・シャドウズ のジェット・ハリス が担当する予定で、ロン・ウッドはセカンド・ギタリストとして加入した。ハリスが参加出来なくなったので、ウッドはベース担当に変更した。
^ 『ジェフベック 孤独の英雄伝説』によれば、『トゥルース』の時はセッション参加であり、それを契機に正式加入した。
^ 『ジェフベック 孤独の英雄伝説』によれば、エインズレー・ダンバーはレコーディング・メンバーとしては初代だが、厳密にはその前に3人のドラマーが存在する。最初は元プリティ・シングスのヴィヴ・プリンスが参加する予定だったがそれが不可能となり、代ってトライデンツ時代の仲間だったレイ・クックが選ばれたがリハーサルの時点で脱退、その後ロッド・クーンが加入したが、3月に行われた最初のライブの後に解雇。エインズレー・ダンバー加入後の最初のライブは5月の英国国内ツアー。
^ a b 原題=Performing This Week: Live at Ronnie Scott's/邦題=ライヴ・アット・ロニー・スコッツ・クラヴ
^ このレスポールを再現したカスタムショップ製シグネイチャー・モデルが販売されている[ 18] [ 19] [ 20] 。
出典
参考文献
ジェフベック 孤独の英雄伝説 なかむら☆よういち著・シンコーミュージック刊(1978 0073-61051-3129)
ザ・ギタリスト〈下〉達人に聞くサウンドの秘密 ドン メン 編集 中山 義雄 翻訳 単行本 音楽之友社 (1996/03)
天才ギタリストジェフ・ベック―完全版 Shinko music mook シンコーミュージック・エンタテイメント (2005/02)
1980年来日公演時パンフレット
1986年来日公演時パンフレット
外部リンク
スタジオアルバム ライヴアルバム コンピレーション サウンドトラック 曲 関連項目