シャトー=ティエリ (フランス語 : Château-Thierry )は、フランス 、オー=ド=フランス地域圏 、エーヌ県 のコミューン 。レジオン・ドヌール勲章 を授けられているまれなコミューンのひとつである。
地理
マルヌ川谷の中にある。川床から丘の上にかけて高度に都市化がされている。コミューンの地形は山がちである。
コミューン北部は(地方区分上で)ピカルディー 、西部はイル=ド=フランス 、東はシャンパーニュ と接する。現在は行政上ピカルディー地域圏 に属するが、フランス革命 まではシャンパーニュ地方に属した。実際にシャトー=ティエリのたたずまいは、丘とブドウ畑の連なるシャンパーニュ地方のコミューンそのものである。マルヌ川谷は交通網の要所(パリ =ストラスブール 間の鉄道と高速道路が通過する)である。
シャトー=ティエリ駅はトランジリアン のトランジリアン・パリ・エスト路線のターミナル駅である。加えて、TER ヴァレ・ド・ラ・マルヌの路線駅でもある。エーヌ県南部とパリとを結ぶ路線が多くあり、県内有数の混雑する駅である。主要道はA4 、D1 などである。
由来
5世紀以降、オトムス(Otmus )と呼ばれていたのが最古の地名の記録である。オトムスとは、エーヌ県南部の地方であるオモワ地方(le Pays de l'Omois )に由来している。718年には城の周りにコミューンが成長し、シャトー=ティエリの名が現れる前はカストルム・ティデリシ(Castrum Tiderici )またはカストルム・テオドリック(Castrum Theodoric )と呼ばれていた。1793年に始まる恐怖政治時代には、エガリテ=シュル=マルヌ (Égalité-sur-Marne )と改名させられていた。
歴史
ティエリ城
文明化の最古の記録は、鉄器時代 の墓の跡である。ローマ時代、マルヌ川やソワソン =トロワ 間の道路が横断する利点を生かして地方第2の町であった。
732年のトゥール・ポワティエ間の戦い でアラブ軍を退けたカール大帝 は8世紀以降にシュヌー谷を見下ろす山地に定住した。彼はこの場所に宮殿や農場を建設した。721年には即に自分のものとなる城の建設をしようと思い立った。そこがブルンヒルド 王妃によって修繕が行われたローマ街道の重要な位置であったからである。シェル修道院にいるダゴベルト3世 の子で、ティエリと呼ばれる若い王子が見出された。即位後彼はテウデリク4世 (ティエリ4世)と名乗った。若い王は王国の中枢を占める人々に疎まれ、要塞に閉じ込められた。これがコミューンの起源である。彼は737年に23歳で死去した。
877年、カール大帝の下でつくられたシャトー=ティエリ伯領はルイ2世 によってヴェルマンドワ伯 エルベール2世 に与えられた。シャトー=ティエリは一時ラウール 王に奪われるが、938年にエルベール2世が死ぬまで領有した。
10世紀半ばにトロワ伯がシャトー=ティエリを軍事的要所として適用し、彼の子孫が11世紀終わりまで領有した。12世紀にシャトー=ティエリ一帯がシャンパーニュ伯領となった。ティボー4世伯はマルヌ川の流れを戻した上でコミューンを城壁で覆い、サン=ジャック砦を築いて防衛の柱とした。ルイ7世 に対して起こした戦争によってシャトー=ティエリ周囲は王軍に荒らされ荒廃した。
ティボー6世がシャトー=ティエリに邸宅を構えていたにもかかわらず、コミューンの憲章が授けられたのは1231年である。
1304年にフランス王妃ジャンヌ・ド・ナヴァール が建設させたシャトー=ティエリ病院は、現在も病院として機能している。
1544年、シャルル5世 が略奪を行った。フランス革命まで、シャンパーニュ地方に属した。
シャトー=ティエリは、第一次世界大戦 中の1918年にアメリカ とドイツ が交戦した地で、前線が置かれた。第二次世界大戦 中の1940年にもフランス遠征の舞台となった。
統計
シャトー=ティエリの人口は相対的に高齢者が多く、全人口の約22%を占めている。
みどころ
サン=クレパン教会
旧シャトー=ティエリ病院のファサード
ボラン塔
姉妹都市