シド・チャリシー(Cyd Charisse、1922年3月8日 - 2008年6月17日)はアメリカ合衆国の女優、ダンサーである。1950年代のハリウッド黄金期にミュージカル映画で活躍し、フレッド・アステアとジーン・ケリーの相手役として知られる。
日本ではシド・チャリシーと表記されることが多いが、発音に近い表記はシド・シャリッシ、シド・シャリッス、あるいはシド・チャリースである。
人物と経歴
デビュー
チャリシー(本名:Tula Ellice Finklea)はテキサス州のアマリロ生まれ。兄弟からは“Sis”と呼ばれていた[1]。彼女はロサンゼルスでバレエを学び、その後“Siderova”という芸名でバレエ・リュスに参加した[2][3]。第二次世界大戦勃発後、チャリシーはロサンゼルスに戻り、コール・ポーター作のミュージカル映画 Something to Shout About のダンサー役で女優デビュー。映画の振り付け師が、ジーン・ケリーを見いだした人物であったことから、チャリシーはメトロ・ゴールドウィン・メイヤーでミュージカル映画を専門に手がけるプロデューサー、アーサー・フリードの創作集団「Freed Unit」に参加することになった[2]。
ミュージカル黄金期
当時のMGMの二枚看板はフレッド・アステアとジーン・ケリーだったが、チャリシーはその二人の相手役をつとめる幸運に恵まれた。
チャリシーが初めてアステアと共演したのは、短編映画『ジーグフェルド・フォリーズ』(1946)。二度目の共演作『バンド・ワゴン』(1953)ではヒロインに扮し、彼女とアステアのダンスは絶賛された。1957年、チャリシーは再びアステアと組み、『絹の靴下』に出演。これはグレタ・ガルボ主演映画『ニノチカ』(1939)のミュージカル版リメイク作品であり、彼女はガルボの有名な役を演じた。アステアは彼の自伝でチャリシーに惜しみない賛辞を送っている。
ジーン・ケリーとは『雨に唄えば』(1952)で初共演し、『ブリガドーン』では準主役で出演。『いつも上天気』(1956)では、ケリーと並んで主役をつとめた。
1952年には、チャリシーの美しい脚に500万ドルの保険が掛けられて話題となった[4]。この保険金額は、それまでのベティ・グレイブルの記録を抜いてハリウッド史上ナンバーワンとなった。
多彩な活動
1950年代後半、ハリウッドのミュージカル黄金期に終焉が訪れ、チャリシーがダンスを披露することはなくなった。しかし、チャリシーはそれからも女優として、映画やテレビに出演し続けた。チャリシーの活動は多岐に渡り、ブルー・メルセデスの I Want To Be Your Property (1987)とジャネット・ジャクソン「オールライト」(1990)のミュージックビデオには、カメオ出演して話題を呼んだ。また、1990年には活動的な熟年層を対象にしたエクササイズビデオ「Easy Energy Shape Up」を発売した。
チャリシーは80代を迎えても現役であり、ハリウッドの黄金期を取り上げたドキュメンタリーに度々出演している。2001年には、ギネスブックの特集で「最も価値のある脚」の持ち主として取り上げられた。2006年には、アメリカ合衆国における文化勲章、National Medal of the Arts and Humanitiesを受賞した[5]。
私生活
チャリシーは1939年にニコ・チャリシーと結婚し、長男を出産する[1]も1947年に離婚。1948年に歌手のトニー・マーティンと再婚し、次男を出産。彼女は亡くなるまで、60余年の長きに渡ってマーティンの妻であり続けた。
2008年6月17日、ロサンゼルスの病院にて心臓発作で亡くなった。86歳
[6]。
主な出演作品
参照
外部リンク