サンルーカル・デ・バラメーダ (Sanlúcar de Barrameda )は、スペイン ・アンダルシア州 カディス県 のムニシピオ (基礎自治体)。グアダルキビール川 河口にある。地元では単にサンルーカル と呼ばれる。
由来
サンルーカルという地名はアンダルシア州内に同名ものが存在するため、地名に由来する名を付加することで区別をしている。この場合のデ・バラメーダとは、サンルーカル港のある場所の通称である。
サンルーカルとは、シロッコ とも呼ばれる、西地中海特有の東風シャルカ(shaluqa、アラビア語 : شلوقة )に由来する。
歴史
古代よりサンルーカルには人が定住しており、タルテッソス に従属していたとみられている。古代の地理学者、ストラボン とポンポニウス・メラ は、現在のサンルーカルはルキフェリ・ファヌム(es:Luciferi Fanum )とエボラ(es:Ébora )の中にあったと記している。ムーア人 に支配された時代には、シドニアのコラ(es 、郡)が設置された。この時代に、ムーア人たちはサンルーカルをMasaguedまたはMassaguedと呼んだ。807年、812年、844年、859年の4回、ヴァイキング がグアダルキビール川河口へ侵攻した。1264年にグアダルキビール川下流がカスティーリャ 王アルフォンソ10世 によって再征服された。1297年にアロンソ・ペレス・デ・グスマン(メディナ=シドニア公 の先祖)がサンルーカル領主となった。グアダルキビール川河口は防衛用のリバート を築くのに適し、これは現在も残るメディナ=シドニア公邸宅の中核となった。これ以降、主としてバラメーダ港を中心とした経済の繁栄が続く。
大西洋=地中海間の海上交通の要所として15世紀から17世紀まで新大陸探険、植民、布教の出発港であった。新大陸発見後は、船舶の補修港となった。多くのコンキスタドーレス たちや、クリストーバル・コロン は第三次航海の際にサンルーカルから出航した。1519年8月10日、フェルナンド・マガリャンエス は5隻の帆船を指揮してセビリアを発ち、グアダルキビール川を下り河口のサンルーカルへやってきた。彼らは5週間サンルーカルに滞在した。1522年、マガリャンエスの探険の生き残りであるフアン・セバスティアン・エルカーノ は、サンルーカルへと帰還した。
1477年から1478年にかけ、第2代メディナ=シドニア公がサンティアーゴ城を築き、1477年にカトリック両王 がサンルーカルを訪問した際には城に滞在した。1492年のアメリカ大陸 発見以降、カトリック両王は、インド諸島、スペイン本土、カナリア諸島、北アフリカとの貿易中心地となったセビリアに、1503年インド貿易院(es:Casa de Contratación de Indias )を設置した。新大陸へ出発する宣教師がサンルーカルへやってくるのは自然なことで、メディナ=シドニア公の庇護を頼り多くの修道会がサンルーカルに根を下ろした。数多くの教会、修道院、礼拝堂が市内に残っている。こうした宗教施設のすぐ隣には、新大陸との間を行き来する人々や物資が集まっていて、都市の外観を対照的なものにしていた。聖フアン・デ・ラ・クルス がサンルーカルのカルメル会 修道院にいた際に書かれたサンルーカル写本(es:Manuscrito de Sanlúcar )が、現在も保存されている。
1567年に描かれたサンルーカル
1614年10月5日、ハバナ を8月7日に出港した慶長遣欧使節 が到着。同行したルイス・ソテロ の故郷であるセビリア へ移動する。
1641年のアンダルシア独立陰謀事件に関わっていたとしてメディナ=シドニア公からサンルーカルの領有権が取り上げられ、都市は王権のものとなった。カルロス2世 治下のスペイン全体の停滞時代にはインド貿易院のカディス 移転(1711年)、そして1755年のリスボン大地震 で、さらにサンルーカルに否定的な影響が及んだ。
1796年夏、画家フランシスコ・デ・ゴヤ は、パトロンである13代アルバ公 カイエタナ (メディナ=シドニア公爵夫人でもあった)の邸宅に滞在し、数作の静物画を描いた。
1848年、モンパンシエ公アントワーヌ とルイサ・フェルナンダ夫妻が、初めてサンルーカルを訪問した。彼らはセビリアのサン・テルモ宮殿を本宅とし、夏の別荘としてオルレアンス=ボルボン宮殿をサンルーカルに建てた。公爵を中心とした、貴族、政治家、芸術家が集う小さな宮廷がサンルーカルにできあがり、町はコスモポリタンな特徴を持つようになった。そしてサンルーカルは、セビリアのブルジョワ階級の休暇地になっていった。この時代には、多くの王族がサンルーカルを訪問した。1853年には元フランス王妃マリー・アメリー 、1856年にはポルトガル 王フェルナンド2世 、1862年には女王イサベル2世 、1882年にはアルフォンソ12世 とマリア・クリスティーナ 夫妻が訪問した。
20世紀初頭の絵はがき。サンルーカルの砂浜に立ち並ぶホテル
19世紀に入り、ワイン用ブドウ栽培と観光でサンルーカルの経済活動は持ち直した。20世紀のスペイン内戦 ではサンルーカルも不穏な空気に包まれたが、市街を破壊されるなどの被害は受けなかった。
フランコ独裁時代、サンルーカルは地主、個人事業主の小集団、職人・農民・漁民が多数を占めるという19世紀末期から続く社会構造であった。靴製造、ガス及びアルコールの工場があった。引き続き、それほどエリート階級を含まない、あらゆる階級のセビリア人の観光地であった。
気候・自然
グアダルキビール川流域にあるサンルーカルは、市域の一部がラス・マリスマス という湿地帯である。海岸地帯は砂丘によって形成された大きな砂州となっている。ここではアルガイダ山というイルメナイト を含む砂でできた大きな砂丘が目を引く。
サンルーカルは海洋性の地中海性気候 である。降雨量は少なく、気温は温暖である。日照時間は、年平均3000時間から3200時間に達する。夏は乾燥し、大西洋の影響で海岸周辺は他より湿度が高くなる。
最近までカメレオン が野菜畑で普通に見られていた。スペイン沿岸地方の都市化が原因で、自然環境の変化に敏感な種の生き物が減ってきている。アルガイダの松林は、重要なトンビ のコロニーとなっている。
人口
サンルーカル・デ・バラメーダの人口推移 1900-2010
出典:INE(スペイン国立統計局 )1900年 - 1991年[ 2] 、1996年 - [ 3]
経済・観光
塩田
サンルーカルはヘレス・デ・ラ・フロンテーラ やエル・プエルト・デ・サンタ・マリア などとともにシェリー酒 の産地である。ジャガイモ、ピーマン、トマト、タマネギ、ニンニク、オリーブなど、野菜・果樹の大生産地でもある。伝統的な塩田が残っている。他に漁業が行われる。1931年以降工業化が進められ、食品製造業や石けん製造などが始まった。
サンティアーゴ城
メディナ=シドニア公邸宅
アリソン邸宅
脚注
外部リンク