サロメ(Salome または Salomé、ヘブライ語: שלומית Shlomit)は、1世紀頃の古代パレスチナに実在した女性。義理の父は古代パレスチナの領主ヘロデ・アンティパス、実母はその妃ヘロディア。古代イスラエルの著述家フラウィウス・ヨセフスが著した『ユダヤ古代誌』や、新約聖書の福音書などに伝わる。
イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの首を求めた人物として、キリスト教世界では古くから名が知られ、その異常性などから多くの芸術作品のモティーフとなってきた。新約聖書では彼女の名を伝えておらず、学問上は単にヘロディアの娘と呼ぶことが多い。
サロメは、新約聖書に登場する女性。父はユダヤのヘロデ大王の王子ヘロデ・フィリッポス(英語版)で、母はヘロデ大王の孫ヘロディア。義父は、実父の異母兄弟であるヘロデ・アンティパス。サロメの母ヘロディアは、はじめヘロデ・フィリッポスの妻となりサロメをもうけたが、後に実父の異母兄弟であるヘロデ・アンティパスと恋仲になり離婚、ヘロデ・アンティパスの妻となった。このため、サロメはヘロデ・アンティパスの姪でもある。
サロメは、ヘロデ・アンティパスに、祝宴での舞踏の褒美として「好きなものを求めよ」と言われ、母ヘロディアの命により「洗礼者ヨハネの斬首」を求めた。
新約聖書には、サロメの名は記されていない。しかし、古代イスラエルの著述家であるフラウィウス・ヨセフスが著した『ユダヤ古代誌』には、「サロメ」という女性の名がある。この「サロメ」は、洗礼者ヨハネとの関係では大きく違うが、父母等の名が聖書の記事と一致する。そのため、同一人物であると考えられ、「サロメ」の名で呼ぶことが定着している。また、サロメは、新約聖書以外の文献の記述から、西暦14年頃に生まれ、その死は62年から71年の間と考えられるが、その生涯の詳細については定かでない。
以下では、双方の伝承について解説する。
「ヘロディアの娘」については共観福音書に記述がある[1]。これらの記述が歴史的事実に基づくか否かは確定されていない。
『マルコによる福音書』には、以下のような記述がある。[2]
14さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、15他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。 17このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。18それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。19そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。20それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。 21ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、22そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、23さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。24そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。25するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。26王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。27そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、28盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。29ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。 — マルコ 6:14-29
14さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、15他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。
17このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。18それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。19そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。20それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。
21ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、22そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、23さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。24そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。25するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。26王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。27そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、28盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。29ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。
引用部分に関する注記:[3]
第一と第二段落のつながりにやや不自然さがある。その他の点も考慮すると、
という内容の伝承があり、それをマルコ[4]がこの形に編集したと考えられる。
『マタイによる福音書』では以下のような記述がある。
1そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、2家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。 3というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。4すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。5そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。 6さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、7彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。8すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。9王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、10人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。11その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。 12それから、ヨハネの弟子たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。 — マタイ 14:1-12
1そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、2家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。
3というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。4すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。5そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。
6さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、7彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。8すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。9王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、10人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。11その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。
12それから、ヨハネの弟子たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
マタイはマルコのいささか冗長な文章を簡潔にしており、ギリシア語としても良質な記述である。ヘロデを四分封領主と訂正しているが、「フィリッボス」の誤りには気づいていない。なお、末尾でヨハネの弟子たちが「イエスに報告した」としているのは、マタイの編集句とされている。
以上を総合すると、マタイはこの記事では全面的に『マルコによる福音書』に依存しており、追加の伝承・資料を持っていなかったことは明白である。
『ルカによる福音書』では以下のような記述がある。
7さて、領主ヘロデはいろいろな出来事を耳にして、あわて惑っていた。それは、ある人たちは、ヨハネが死人の中からよみがえったと言い、8またある人たちは、エリヤが現れたと言い、またほかの人たちは、昔の預言者のひとりが復活したのだと言っていたからである。9そこでヘロデが言った、「ヨハネはわたしがすでに首を切ったのだが、こうしてうわさされているこの人は、いったい、だれなのだろう」。そしてイエスに会ってみようと思っていた。 — ルカ 9:7-9
ルカも『マルコによる福音書』に全面的に依拠している。
マタイと同様に『マルコ』の文章を大幅に改善しているが、重要なのはヘロディアの娘への言及を含めてヨハネの死に関する具体的記述を完全に削除している点である。これはルカの
等の結果である。
なお、マタイとルカの福音書では版によってヘロディアの前夫の名前が書いてないものも存在しており、『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史II』では、へロディアの前夫としてフィリッポスの名前が書かれているかどうかについて、
とある[6]。
フラウィウス・ヨセフスがその著書『ユダヤ古代誌』(93年 - 94年頃完成)において、以下のような記述を行っている。[7]ここでも、〔 〕は原文にない訳者による補足。
ここでは、洗礼者ヨハネの処刑が記述されている。途中を一部省略したが、節の始めと末尾部分を引用する。
さて、ユダヤ人の中にはヘロデ〔・アンティパス〕の軍隊の壊滅は、洗礼者と呼ばれたヨハネに対して彼が行ったことへの神による罰であり、全く義にかなった事だと考える者たちがいた。というのも、ヘロデは彼を殺害したのである。が、ヨハネは、正しい人であり、ユダヤ人たちに互いに義なるを行い、また神への敬虔を尽くせと命じ、その証に洗礼を受けに来るように言っていたのである。〔中略〕さて、人々が群れをなしてヨハネの許に押し寄せ、彼の言葉に大きな感銘を受けていた。ヘロデは、ヨハネの民衆への大きな影響力が、彼の権力に及び、叛乱へと繋がることを恐れた。彼は、ヨハネがもたらすかもしれない一切の悪影響を防止し、一人の人間の命を惜しんだが故に、ことが起きてから手遅れだったと後悔する様な困難に自らを陥らせぬためには、殺してしまうのが最善だと考えた。そこでヘロデは、その猜疑心を払拭すべく、囚人を、既に私が言及した城である、マカイロスに送り、そこでヨハネを殺害した。で、ユダヤ人の間に、彼の軍隊の壊滅はヘロデへの罰であり、神が彼を不快に感じている証だとの説が生じたのである。 — 『ユダヤ古代誌』第18巻5章2節
さて、ユダヤ人の中にはヘロデ〔・アンティパス〕の軍隊の壊滅は、洗礼者と呼ばれたヨハネに対して彼が行ったことへの神による罰であり、全く義にかなった事だと考える者たちがいた。というのも、ヘロデは彼を殺害したのである。が、ヨハネは、正しい人であり、ユダヤ人たちに互いに義なるを行い、また神への敬虔を尽くせと命じ、その証に洗礼を受けに来るように言っていたのである。〔中略〕さて、人々が群れをなしてヨハネの許に押し寄せ、彼の言葉に大きな感銘を受けていた。ヘロデは、ヨハネの民衆への大きな影響力が、彼の権力に及び、叛乱へと繋がることを恐れた。彼は、ヨハネがもたらすかもしれない一切の悪影響を防止し、一人の人間の命を惜しんだが故に、ことが起きてから手遅れだったと後悔する様な困難に自らを陥らせぬためには、殺してしまうのが最善だと考えた。そこでヘロデは、その猜疑心を払拭すべく、囚人を、既に私が言及した城である、マカイロスに送り、そこでヨハネを殺害した。で、ユダヤ人の間に、彼の軍隊の壊滅はヘロデへの罰であり、神が彼を不快に感じている証だとの説が生じたのである。
すなわち、ヨセフスによればヨハネの処刑はあくまでヘロデ・アンティパスの政治的決断である。従って、ヘロディアや、その娘は処刑にかかわっていないことになる。また、ヨハネの処刑はマカイロス要塞で行われており、この点もマルコが利用した伝承とは異なっている。
ここではヘロデ大王家関連の人物関係が記述されている。その途中部分のみを引用する。[8]
(前略)しかし、彼らの姉妹のヘロディアは、ヘロデ大王の息子で、高位の祭司シモンの娘のマリアムネが生んだヘロデ〔・ボエートス〕と結婚し、サロメという娘ひとりをもうけた。娘が生まれた後、これはわが国の律法の相容れぬことであるが、娘を連れて、夫が存命であるにもかかわらず離婚して、ヘロデ〔・アンティパス〕と結婚した。彼は前夫の異母兄弟であり、ガリラヤの四分封領主であった。さて、その娘サロメはヘロデ〔大王〕の子でトラコニティスの分封領主であるフィリッポと結婚したが、子が出来ないうちに彼は死んだ。ヘロデ〔大王〕の子で、アンティパスの兄弟であるアリストブラスが彼女と結婚した。二人には、ヘロデ、アグリッパ、アリストブラスの三人の息子がうまれた。これらは、ファサエラスとサランピシオの子孫である(後略) — 『ユダヤ古代誌』第18巻5章4節
(前略)しかし、彼らの姉妹のヘロディアは、ヘロデ大王の息子で、高位の祭司シモンの娘のマリアムネが生んだヘロデ〔・ボエートス〕と結婚し、サロメという娘ひとりをもうけた。娘が生まれた後、これはわが国の律法の相容れぬことであるが、娘を連れて、夫が存命であるにもかかわらず離婚して、ヘロデ〔・アンティパス〕と結婚した。彼は前夫の異母兄弟であり、ガリラヤの四分封領主であった。さて、その娘サロメはヘロデ〔大王〕の子でトラコニティスの分封領主であるフィリッポと結婚したが、子が出来ないうちに彼は死んだ。ヘロデ〔大王〕の子で、アンティパスの兄弟であるアリストブラスが彼女と結婚した。二人には、ヘロデ、アグリッパ、アリストブラスの三人の息子がうまれた。これらは、ファサエラスとサランピシオの子孫である(後略)
ここに記述されているサロメが
ことが福音書の記事と一致することから、洗礼者ヨハネの首を求めた娘であるとされた。
その特異性もあって、古くから多くの芸術作品の素材となってきた。ただし、特に取り上げられることの多かった時期が鮮明である。以下、その点を考慮して時代順に列挙する。[9]
洗礼者ヨハネの刑死はイエスの生涯の物語で重要な場面であるため、西洋絵画では古くからそれに関する絵画が描かれてきた。特にルネサンス期からバロック期にかけて、イタリアやオランダなどの画家たちによって、きわめて多くの作品のモティーフとされた。
なお男性の首をもつ女性のモティーフにはユディトがあるが、ユディトがしばしば剣をさげかつ首はそのまま持たれるのに対して、サロメは剣を持たずヨハネの首は皿に載せられて描かれるので注意が必要である。
以下、主なものを年代順に列挙する。
しかし、17世紀後半からの「科学革命の時代」あるいは「啓蒙の時代」には、画家たちの関心はこのモティーフから急速に離れてゆき、この傾向は、その後およそ200年にわたって続くことになる。
19世紀後半から20世紀初頭のいわゆる「世紀末芸術」の中で、サロメは各分野の素材として、再び大きな関心を呼ぶことになる。
絵画作品としては、以下のようなものがある。19世紀に入ると聖書や神話に題材をとる作品は再び増加するが、とりわけギュスターヴ・モロー(後述)の一連の作品は著名である。
ジュール・マスネが上記のフロベール作の小説を元に、1881年に作曲したオペラ。台本は、ポール・ミレー、グレモン、ザマディーニの共作である。
こうした傾向を一段と顕著にさせたのが、オスカー・ワイルドによる戯曲『サロメ』(1893年)である。これはフランス語で執筆され、1896年にパリで初演された。
1894年出版の英語版は、アルフレッド・ブルース・ダグラスの翻訳とされ、オーブリー・ビアズリーの挿絵が添えられている。
「サロメ」を全体の主人公として前面に出し、洗礼者ヨハネに強く魅せられたサロメがその誘惑を拒絶するヨハネに対して、ヘロデの要望で「7つのヴェールの踊り」を舞った代償としてヨハネの首を求める。最終場面では、その首にサロメが口づけする衝撃的場面があり、その上演はスキャンダルとなった。
一晩の演目としてはいささか短すぎる作品ではあるが、現在でも日本を含む各国で上演されている。
ワイルドの戯曲化と20世紀における映画などの新しい分野の開拓で、サロメはいろいろな芸術作品で素材として扱われるようになった。主なものを以下に挙げる。詳細についてはそれぞれの項目を参照のこと。
リヒャルト・シュトラウスが、ワイルドの戯曲のヘドヴィッヒ・ラハマンによるドイツ語訳をほぼそのまま台本にして、一幕のオペラを作曲した。1905年にドレスデンで行われた初演は大成功し、シュトラウスはこの作品でオペラにおいても高く評価されることになった。 現在でも、『ばらの騎士』と並ぶ人気作で各地で上演されており、ドイツ語圏の主要な歌劇場では多くがレパートリーにしている。
ワイルドが導入した「7枚のヴェールの踊り」と、上記のシュトラウスによるオペラの成功を受けてバレエ作品化が行われている。主なものを以下に示す。
マスネの弟子であったフローラン・シュミットが『サロメの悲劇』というバレエ音楽を1907年に作曲している。この作品は1時間ほどの作品で20人ほどの小規模なオーケストラ向けのものである。
シュミットは後にこの作品を素に、30分ほどの同題の交響詩を作曲した。この交響詩は現在も頻繁に演奏され、多数のレコード・CD録音がある。
舞踊音楽『サロメ』は1948年に伊福部昭が貝谷バレエ団創立10周年記念として作曲したバレエ作品であり1987年に演奏会用の曲として手が加えられた。
『サロメ』はオランダの振付師フレミング・フリント(Flemming Flindt)が企画したバレエ作品。作曲はペーター・ディヴィーズ(Peter Maxwell Davies)で、1978年にコペンハーゲンで初演された。この公演はオランダ国営放送が収録して、テレビ放映されている。
また、歌詞に「サロメ」が登場する曲には次のようなものがある。
映画が発明されると、サロメは格好の題材とされた。多くはワイルドの戯曲を元にしているが、関連作品は現在までに50作品以上になる。[12]
主なものを以下に列挙する。
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