ケリーこと、クレズリー・エヴァンドロ・ギマランイス(Clesly Evandro Guimarães "Kelly"、1975年4月28日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手。ポジションは主にミッドフィールダー (MF)。
来歴
5歳の時にサッカーを始める[3]。CAブラガンチーノのトレーナーを務める叔父の紹介を受け[4]、15歳で親元を離れ[5] 同クラブの下部組織へ加入。1992年にプロ契約を結んだ[4]。
ブラジル全国選手権での活躍が認められ[4]、1997年にスペイン・CDログロニェスへ移籍。しかし外国籍枠の制限から若手のケリーはメンバー外になることが多く[6]、半年で移籍期間を満了した。
1998年から所属したアトレチコ・パラナエンセではチームにフィットし実力を発揮。ケリーはトップ下で[3] 背番号10を背負い、MFアドリアーノ、FWクレーベル、FWルーカスと築いた攻撃陣は「quadrado mágico(魔法陣)」と称された[7]。ケリー自身も州選手権制覇の原動力となる活躍で「パラナ州最高のフットボーラー」として名を馳せ[4][8][9]、その名前に違わぬプレーを披露した。
2001年3月、同年のJリーグ開幕直前にFC東京へ移籍[8]、4月14日の浦和レッズ戦での決勝ゴールがJリーグ初ゴールとなった[11]。卓越した個人技と[4]周囲を活かす抜群のキープ力で[12]チームの攻撃を掌握しトップ下に定着。的確にスペースをつく効果的なパス、二列目から飛び出して行きゴールに球を流し込む・押し込むようなゴール、相手に囲まれた際にヒールパスやラボーナなど意表をつくプレーで[9]「将軍」の異名をとった。2002年はフィールドプレーヤーではチーム最長出場[13]、2003年にはJリーグ優秀選手に選出された[14]。
2004年は膝、足首、脹脛と細かな負傷が続き[15]、復帰戦でも退場処分を受けるなど[16] 思わぬ不振に見舞われた[17]。シーズン後半から復帰し[18]同年のナビスコカップ優勝にも貢献したが、ケリーの離脱中に抜擢された馬場憂太や梶山陽平が好プレーを続けたことや[19]、クラブ首脳がケリーら外国籍助っ人頼みとなっている状況からの脱皮を試みたこと[12] などの要因が重なり、この年限りで契約を満了[20]。2ndステージ、第4節、9月11日のヴィッセル神戸戦で決めた2点目のゴールがJリーグでの最後のゴール[21]、第13節、11月20日のアルビレックス新潟戦が最後の出場となった[22]。Jリーグでは通算97試合30ゴール、リーグカップでは22試合4ゴールの成績を残した[11]。
日本でのプレー継続を望んでいたが[17][23]、他クラブからの具体的なオファーは無く[24]、2005年1月、母国ブラジル帰国後にクルゼイロECへ完全移籍。早々にポジションを獲得すると点取り屋としての才能も開花させ、同年のブラジル全国選手権ではチーム得点王となる16得点を挙げた[25]。クルゼイロとの契約途中でUAEの強豪アル・アインFCから好条件のオファーが届いた事から円満移籍に至り、スペイン・日本に続く3ヶ国目の海外移籍を果たした。
2007年3月、ブラジルに帰国し名門・グレミオに移籍[26]。その後2008年シーズンからは古巣であるアトレチコ・パラナエンセに復帰するものの、右膝を手術するなど[27][25]コンディションは悪く、同年12月いっぱいでクラブを退団。AAポンチ・プレッタへの移籍を図ったが、右膝はプレーに耐えられるほどには回復しなかったことから[28]、2009年8月に引退を表明した[25]。
引退後は、フィジカルコーチを目指してブラジルのスポーツ大学で体育学学位を取得[9]。また、自身のイニシャルを取ったサッカースクール「KG10」を設立した[25]。
エピソード
所属クラブ
個人成績
指導歴
タイトル
- ブラジル
- 日本
- アラブ首長国連邦
脚注
関連項目
外部リンク