クノ・マイアー またはクノ・マイヤー (ドイツ語 : Kuno Meyer 、1858年 12月20日 - 1919年 10月11日 )は、 ドイツ のケルト言語学者 、文学者 。 生涯を通じ4つのケルト学芸誌を創立・共編。第一次世界大戦 の開戦時に訪米中、母国ドイツ擁護の姿勢をつらぬき物議を醸した。
学界では主にケルト辞書学者として知られているが、アイルランド大衆にはむしろ1911年 刊行の「アイルランド古詩選 (Selections from ancient Irish Poetry )」を通じて古代の詩文学について広めた人物として親しまれている[ 2] 。古・中アイルランド語の物語・伝説の原文・英訳を多数発表し、多数の論文における幅広い題材は、人名・地名や法制度の考察にまで及んだ[ 3] 。
略歴
ハンブルク に生まれる。史家のエドゥアルト・マイヤー は実兄。地元の名門ヨハネウム学院 に就学。青年時代の2年間(1874–6年)をスコットランドのエジンバラ で過ごし、英語を習得している。1879年 、ライプツィヒ大学 に入学し、エルンスト・ウィンディッシュ に師事[ 5] [ 2] 。1884年 、「アイルランド版アレクサンドロス物語 」と題する論文で博士号取得[ 6] 。 のち英国リヴァプール 市のユニバーシティカレッジ(現今のリヴァプール大学 )でゲルマン言語 講師に着任[ 7] 。
この時期、古アイルランド語 やケルト言語全般についての執筆を発表するかたわら、ドイツ語の教科書の制作もおこなっている。 1896年 、L・C・シュテルン (ドイツ語版 ) と共同でケルト文献学の学術誌「ツァイトシュリフト・フュア・ケルティッシュ・フィロロギー (英語版 ) 」を創刊、両人共その編集にあたった。さらに1898年 、ホイットリー・ストークス と共に辞書学の学芸誌(「アーヒーフ・フュア・ケルティッシュ・レクシコグラフィー」 )を立ち上げ、1900-1907年のあいだに全3巻を刊行している。
1903年 、ダブリン 市にアイルランド語学習校(School of Irish Learning )を設立。翌1904年 にはその機関誌「エーリウ(Ériu )」 を創刊し、編集者を兼任した。同年、王立アイルランド学士院 (英語版 ) でトッド冠名ケルト言語教授に就任している。1911年 10月、ベルリン 市のフリードリヒ・ヴィルヘルム大学 の招聘を受け[ 7] 、ハインリヒ・ツィマー (英語版 ) の後任として同校のケルト言語教授となった。翌1912年 、その選任を祝し、生徒や友人による一冊の記念論文集 (英語版 ) 『雑録(Miscellany )』が刊行されている[ 9] 。また、ダブリン 市、コーク 市より自由市民(フリーマン)の称号を受けている。
第一次世界大戦 の勃発を機に、マイアーはアメリカ に渡り、コロンビア大学 やイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校 などで講義をおこなった[ 注釈 1] 。1914年 、アイルランド独立支持の在米団体クラン・ナ・ゲール (英語版 ) を聴衆にニューヨークのロングアイランド で演説したが、ドイツ支持の内容だったために英国・アイルランドで反感を買い、ダブリン市、コーク市のフリーマン称号を剥奪され[ 注釈 2] 、リヴァプール大学の名誉教授職も失った。同じ頃、アイルランド語学習校の理事職、「エーリウ」編集長の地位も辞している。
ハーバード大学 からも講義の招待状を受けていたが、1914年秋になるとプロパガンダ 的活動を理由にその招待を撤回された[ 13] [ 14] 。この扱いに不快感を示すも、このときは同大学の交換教授制度に立候補している。しかし「ハーバード・アドヴォケット (英語版 ) 」誌が1915年4月号にドイツを風刺する「神は我らと共に(Gott mit Uns)」という詩を一等賞として掲載し、しかもその選者が教授2名だったことで[ 注釈 3] 、中立性の欠如を糾弾する書簡をハーバード大学を送りつけ、マスコミ各紙にも配布した[ 注釈 4] 。これに対し、ローウェル 学長は、ハーバード大学における言論の自由 の方針は、生徒・教員の言動を束縛せず、ドイツ派も連合国 派も隔たりなく発言を認めるものであると返答している[ 15] [ 16] [ 7] 。
1915年 、カリフォルニア州で列車衝突事故に遭遇、その治療中27歳の看護婦フローレンス・ルイスと出会い、まもなく結婚[ 18] 。1916年 参戦中のドイツに妻フローレンスは娘を伴って先行し、マイアーは翌1917年 にこれを追った。1919年、フローレンスがスイスに滞在中でドイツに戻る準備が整わずいるうち、10月11日にマイアーはライプツィヒ で息をひきとった。
評価
マイアーの没後の1920年 、ダブリン市(4月19日)とコーク市(5月14日)は相次いでフリーマン市民の栄誉を復活させている。ダブリンでは、シン・フェイン党 が市議の多数議席を掌握して3か月後、1915年当時アイルランド議会党 (英語版 ) 主導で行われたマイアーの栄誉剥奪を撤回させたかたちとなった。しかしこれはあまり広報ておらず、1965年 に改めてマイアーのダブリン自由市民権復活の訴状運動がおこったほどであった[ 21] [ 2] [ 22] 。
1920年、知人で言語学者・政治家のダグラス・ハイド (のちアイルランドの初代大統領 )は、マイアーを評して、「その親愛を感じる人柄は右に出るものなく、彼自身がアイルランドを愛していたことは疑うべくもない」と述べている。またハイドが設立したゲール語連盟 がゲール語 科目をアイルランド中等教育に追加させようとした活動でも、マイアーの役割が決定的となり達成できたとしている[ 23] 。
W・T・コズグレイヴ (のちアイルランド自由国 の初代首相 )も、ダブリン市会議員だった当時マイアーの自由市民権剥奪には異議を唱え、マイアーを「ホイットリー・ストークス の死後、随一のケルト学権威」と称し、「いま健在の誰よりもアイルランドの学術とアイルランド国家の栄光に尽くした人物」と評している[ 24] 。
2004年 、プロインシァス・マッカーナは「エーリウ」誌100周年版で、クノ・マイアーを「偉大なる」学者と称え、ジョン・ストラハン (英語版 ) との見事な連携で同誌の最初期の編集にあたったと、その手腕を評している。マイアーは外国人の立場にありながら、アイルランドで後続のケルト学者が養成されることを切望していた。アイルランド語学習校および「エーリウ」の設立も、その目的達成のためであった。その後マイアーの薫陶を受けた学徒らが「エーリウ」編集者を歴任したことで、はたしてマイアーたちの大志は成就された、としている[ 26] 。
著作一覧
以下、マイアーが発表した執筆の一部である:
脚注
注釈
出典
^ a b c
Murphy, Maureen (Nov 1994), “(Review) Kuno Meyer, 1858-1919: a biography, by Seán Ó Lúing”, Irish Historical Studies (Cambridge University Press) 29 (114): 268–270 JSTOR 30006758
^
Titley, Alan (Oct 1994), “(Review) King Kuno”, Books Ireland (Cambridge University Press) (162): 188–189 JSTOR 20626621
^ Rines, George Edwin, ed. (1920). "Meyer, Kuno" . Encyclopedia Americana (英語).
^
Meyer, Kuno (1884). Eine Irische version der Alexandersage (Thesis).
^ a b c Reynolds, Francis J., ed. (1921). "Meyer, Kuno" . Collier's New Encyclopedia (英語). New York: P. F. Collier & Son Company.
^
Miscellany presented to Kuno Meyer by some of his friends and pupils on the occasion of his appointment to the chair of Celtic philology in the University of Berlin , Halle: M. Niemeyer, (1912)
^ “A War Poem and Its Consequences” . Harvard Alumni Bulletin 17 (30): 235–6. (May 5, 1915). https://books.google.com/books?id=JyTPAAAAMAAJ&pg=PA544 .
^ Bethell, John T. (1998), Harvard Observed: An Illustrated History of the University in the Twentieth Century , Harvard University Press, p. 70, https://books.google.com/books?id=hxpvsfxjfMAC&pg=PA70
^ 1つ以上の先述文章にはパブリックドメイン である次の文書本文が含まれる: Chisholm, Hugh, ed. (1922). "Lowell, Abbott Lawrence ". Encyclopædia Britannica (英語) (12th ed.). London & New York: The Encyclopædia Britannica Company.
^ “The Meyer incident” . The Harvard graduates' magazine 24 (93): 235–6. (September 1915). https://books.google.co.jp/books?id=Uj4BAAAAYAAJ&pg=PA235&redir_esc=y&hl=ja March 31, 2011 閲覧。 .
^ http://www.ucc.ie/celt/meyer.html
^ Freedom of the City of Dublin
^ Your Council » Freedom of the City
^ Hyde, Douglas (June 1920), “Canon Peter O'Leary and Dr. Kuno Meyer”, Studies: An Irish Quarterly Review 9 (34): 297–301 JSTOR 30082987
^ Cosgrave, W. T. (17 July 1915). “Kuno Meyer” . The Vital Issue (Issues and Events) 3 (3): 5. https://books.google.com/books?id=0no-AQAAMAAJ&pg=PR23 . (reprint of Cosgrave's letter dated 8 February 1915)
^
Mac Cana, Proinsias (2004), “Ériu 1904-2004”, Ériu 54 : 1–9 JSTOR 30007360
参考文献