オィット・タナック[ 1] (Ott Tänak, 1987年 10月15日 [ 1] - )は、エストニア 出身のラリー ドライバー。2019年 の世界ラリー選手権 (WRC) ドライバーズチャンピオン。
日本のメディアでは「オット・タナク 」と表記されることもある[ 2] (後述 )。
略歴
初期の経歴
2010年フィンランド
タナックは趣味でラリーに出場する父親の影響を受け、2004年からジュニアラリー競技を始めた。2008年・2009年にはエストニアラリー選手権のN4 +S2000 クラスを連覇した。
2010年 は同郷エストニアの英雄で当時Mスポーツ に所属していたマルコ・マルティン が、Mスポーツ代表のマルコム・ウィルソン にタナックを推薦したことで、ピレリ タイヤと国際自動車連盟 (FIA) が進める若手育成プログラム「ピレリ・スタードライバー (Pirelli Star Driver ) 」の一員に選ばれ、プロダクションカー世界ラリー選手権 (PWRC) にて三菱・ランサーエボリューション X(グループN )をドライブし2勝を挙げた。
2011年 はマルティンが運営するMMモータースポーツ[ 3] からフォード・フィエスタ S2000をドライブし、S2000世界ラリー選手権 (SWRC) に出場した。3勝を挙げチャンピオン候補となるが最終戦でマシンを壊してしまい、ユホ・ハンニネン に次ぐランキング2位に終わる。WRC最終戦ラリーGB ではストバート・フォード[ 4] のフィエスタWRC をドライブし、WRC初参戦となる中国のDMACK タイヤを装着して6位入賞を果たす。
挫折と成長
2012年 はMスポーツ ・フォードからWRCフル参戦を果たす。第12戦ラリー・イタリア で3位初表彰台を獲得するが、シーズンを通して安定感を欠き、Mスポーツから放出され、2013年はエストニアのローカルラリーに逆戻りする。
2014年 はDMACKが立ち上げたWRC2チームと契約し、フィエスタR5をドライブ[ 5] 。WRC3戦に出場し、第4戦ラリー・ポルトガルでは序盤2位を快走した。また、ヨーロッパラリー選手権 (ERC) 2戦にもスポット参戦し、ホームイベントのラリー・エストニア で優勝した[ 6] 。
2015年 は引退したミッコ・ヒルボネン の代わりにMスポーツ・ワールドラリーチームに加入し、2年ぶりにWRCにフル参戦。第7戦ラリー・ポーランド で3位表彰台を獲得するも、シーズン終了後に再びMスポーツから放出される。
2016年モンテカルロ
2016年 はフォードのセカンドチームとして発足したDMACK・ワールドラリーチームよりWRCにフル参戦[ 7] 。第7戦ラリー・ポーランドで初日から首位を快走し、セーフティリードを築いて最終日を迎えるが、最終SS目前のSS20で痛恨のパンクを喫し2位に終わる[ 8] 。フィニッシュ後、悲嘆にくれるタナックをセバスチャン・オジェ ら他の選手たちが慰め、健闘を讃えるという光景がみられた[ 9] 。第12戦ラリーGBでもオジェを猛追し2位を獲得。シーズン終了後、公式サイトwrc.comのファン投票による「WRCドライバー・オブ・ザ・イヤー」に選出された[ 10] 。
2017年 は再びMスポーツに復帰し、WRC4連覇中のオジェとコンビを組む。持ち前の速さに加え安定感を身につけ、開幕から上位フィニッシュを重ねる。第7戦ラリー・イタリアではWRC参戦73戦目にして初優勝を達成[ 11] 。エストニア人の優勝は、師であるマルティン(2004年ラリー・カタルーニャ )以来13年ぶりとなった。第10戦ラリー・ドイツ でも雨天のタイヤ選択が成功し、ターマック 初勝利を獲得[ 12] 。年間チャンピオン争いにも食い込み、最終的にオジェとティエリー・ヌービル に次ぐランキング3位を獲得し、Mスポーツのチームタイトル獲得にも貢献した。
トヨタ加入
2017年は自身の飛躍の年になった一方で、Mスポーツ は限られたリソースの多くを王者オジェに注ぎ込んでおり、二番手の扱いに甘んじていた。そこでチャンピオンになれる環境を求め、TOYOTA GAZOO Racing WRT 代表のトミ・マキネン からの引き抜きに応じた[ 13] 。これに長年タナックの面倒を見てきたMスポーツのウィルソンは「これほど信頼を寄せたドライバーはいない」と弟子の旅立ちへの痛切な胸の内を語りつつも今後の健闘を祈念した[ 14] 。
2018年ドイツ
2018年開幕戦モンテカルロは移籍直後で完走狙いと語っていたが、いきなりチームメイトのヤリ=マティ・ラトバラ を上回る2位表彰台を獲得。また第4戦ツール・ド・コルス 終了時点では全ドライバー中最も多くのステージウィンを記録するなど、その速さがフロックではないことを示した[ 15] 。第5戦ラリー・アルゼンチン では通算100ステージウィンを記録し、そのまま最多ステージウィンで移籍後初、自身3勝目となる優勝を挙げた[ 16] 。第8戦ラリー・フィンランド ではパワーステージ1位を同時に獲得しつつ、師であるマルコ・マルティン 以来15年ぶりのエストニア人としての同ラリー優勝を果たした。続くラリー・オブ・ターキー では我慢のラリーを強いられつつも、サバイバルを制して自身初の3連勝を果たした。このままの勢いでチャンピオンになるかと思われたが、残り3戦ではいずれもトップに立つもマシントラブルやタイヤのパンク、さらに自身のミスもあって、年間ステージ勝利数1位にもかかわらずタイトルを逃してしまった。一方でトヨタはタナックの大活躍に支えられ、復帰2年目で19年ぶりにマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。
2019年も変わらずトヨタから参戦。チームメイトは昨年に続きラトバラとこの年からチームに加入したクリス・ミーク 。開幕戦ラリー・モンテカルロ を3位で終え、続くラリー・スウェーデン では北欧出身ドライバー以外では史上4人目となる優勝を飾る。また、ラリー・フィンランドとの両制覇は北欧出身ドライバー以外では史上3人目。その後3戦はオジェとヌービルの後塵を拝するが、第6戦ラリー・チリ と第7戦ラリー・ド・ポルトガル で連勝し、いち早くシーズン3勝目を挙げる。第8戦ラリー・イタリア・サルディニア は終盤までトップを快走していたものの最終ステージでトラブルに見舞われ5位に終わる。しかしタイトルを争うオジェとヌービルも表彰台圏外に終わったことで、サマーブレイク前の時点でランキングトップに立った。そして最終戦直前のラリー・スペインのパワーステージで圧巻の走りを見せ、2位浮上・ステージウィンとともにドライバーズチャンピオンを決めた。エストニア人がFIA世界選手権でチャンピオンとなるのはタナックとヤルヴェオヤが初である。
一方で、ヤリスWRC の信頼性の改善の方針を巡り、マキネンとの意見の食い違いが2018年から断続的に発生。トヨタとの契約延長交渉は難航した。前述のイタリアでの最終SSに加え、トルコでのロードセクションにおけるマシントラブルが決定打となり、これを嗅ぎつけたヒュンダイ チーム代表のアンドレア・アダモの誘いに応じた。ラリーGB優勝直後の10月上旬にヒュンダイと契約。ラリースペインのデイ2終了後に英国オートスポーツ誌がヒュンダイへの移籍の噂を報じ、チャンピオン獲得後のわずか3日後に正式発表された。
ヒュンダイ
2020年はティエリー・ヌービル /ニコラ・ジルスール組とのダブルエース体制の一翼を担う。開幕戦モンテカルロではマシンが何回転もする大クラッシュを喫するが、スウェーデンとメキシコで調子を取り戻し、いずれも2位表彰台を獲得。その後、新型コロナウイルス感染症 の影響によるシーズン中断・再編でラリー・エストニア が急遽WRCイベントに昇格。意外な形で実現したWRC地元開催を制し、移籍後初勝利を果たした[ 17] 。しかし第5戦トルコ ではステアリングトラブルで17位、翌戦のイタリア は6位に終わるが、最終戦モンツァ を前にランキング首位のエバンスから28ポイント差の4位につけ僅かながら逆転チャンピオンの可能性を残した。その最終戦は予測不能なコンディションではあったがしぶとく走り切り2位表彰台を獲得した。最終的にチャンピオン連覇は果たせなかったが、ランキングではチームメイトヌービルを上回る3位で終えた。
2021年ラリー・クロアチア
2021年 も同チームから参戦。開幕戦モンテカルロで2年連続のリタイアとなるが、次戦のアークティック・ラリーで今季初の優勝を飾り、サファリラリー でも曇るフロントガラスに苦しみながらも3位表彰台を飾る活躍を見せる。しかし再びマシンの不調を引きずるようになり、3連覇中だった母国エストニアでは大本命と言われながらも、SS4でマシンのパンクを起こしたことからリタイアせざるを得なくなってしまった[ 18] 。その後のベルギーでもパンクで6位に終わり、アクロポリス、フィンランドでは復調し2位となるが、スペインでは初日のコースオフでリタイア、最終戦は家庭の事情で欠場を余儀なくされランキングは前年を下回る5位で終えた。なお同年5月6日に、ヌービルと共に2022年 からの複数年契約を結んだことを発表している[ 19] 。
2022年は移籍のきっかけを作ったアダモがチームから去ってしまった。マシンの信頼性不足も相まって不調は続いており、一時は元弟子の勝田貴元 よりもランキングで下回るほどであった。トヨタ勢にトラブルが続出し最終2SSがキャンセルされた第5戦イタリアでなんとか優勝を果たし、第7戦母国エストニアでは3位表彰台に上がるも「母国で競争力がなかったのは初めてだった」として、マシンやチーム体制に不足を感じていることを認めている[ 20] 。それでも次戦フィンランドではシーズン2勝目をマークしてトヨタの同イベント5連覇を阻止。首位とは大差だが年間ランキング2位に浮上し、次戦イープル・ラリー でもロバンペラとヌービルの脱落もあって連勝を飾った。アクロポリス・ラリー は2位でヒョンデ初となる表彰台独占の一角を占めたが、この時ランキングが下のヌービルに順位を譲らせなかったチームの判断を「間違っている」と公然と非難[ 21] 。次戦ニュージーランドでドライバーズ、ラリー・スペインでマニュファクチャラーズタイトルがいずれも最終戦前に奪われた直後、「一身上の都合」を理由に、契約をもう一年残していたはずのヒョンデからの離脱を電撃発表した[ 22] 。ヒョンデではトヨタ時代よりも多くのラリーに出走したが、優勝回数はトヨタ時代の半分だった。
Mスポーツ復帰
2023年セントラル・ヨーロピアン・ラリー
離脱発表後間が空いて去就が注目されたが、12月初頭にヒョンデに出戻りするクレイグ・ブリーン と入れ替わるような形で古巣Mスポーツ・フォード へ復帰が決まった。
2023年1月にはレッドブル ・アスリート入りを果たし、マシンもレッドブルカラーとなった。第2戦スウェーデンで、これが結果的に最後のラリーとなったブリーンとの接戦を制して移籍後初優勝を挙げ、終盤チリでも2勝目を挙げた、しかし中盤以降はトラブルに悩まされてポイントが伸びず、ランキングは4位であった。
まだタイトルが確定していない段階の10月初頭、たった一年でヒョンデに舞い戻ることが発表された[ 23] 。
エピソード
名前の表記揺れ
日本のメディアにおいて「オット・タナク 」という表記がよく用いられていたものの、エストニア語 の発音に準じて名を「オイット 」または「オィット 」(トは子音なので「オイ」とも)、姓を「タナック 」と表記することが多くなった。テレビ朝日のWRCバラエティの『地球の走り方 世界ラリー応援宣言』では2017年ラリーGBより「タナック」表記に変更となっている[ 24] 。また2019年よりトヨタは「オット」から「オィット」に変更、これに伴いラリー情報サイトのラリープラスやWRC中継を放送するJ SPORTS [ 25] も「オィット・タナック」という表記に変更している。
"タイタナック"事件
タナクは競技中にあわやというアクシデントを何度か経験している。
2015年ラリー・メキシコ
コースアウトして斜面を滑り落ち、車ごと貯水池に転落。25秒ほどで完全に水没し、クルーは車内から間一髪で脱出した[ 26] 。池から引き上げられた車両をMスポーツチームが懸命に修復し、タナックは最終日にラリーを完走することができた。フィニッシュポディウムではシュノーケルをつけて登場し観客を湧かせた。この車両は豪華客船「タイタニック号 」と掛け合わせて「TiTanak(タイタナック) [ 27] 」と命名された。
2018年公開のラリー映画『OVER DRIVE 』では、この出来事をモチーフにしたエピソードが盛り込まれている。
2017年シーズン終了後のトヨタの報告会に来季ドライバーとしてサプライズ登場した際、豊田章男 社長からGR ロゴの入った特製シュノーケルをプレゼントされた[ 28] 。
2016年ラリー・ポルトガル
コースアウトしたヘイデン・パッドン の車から山火事が発生(車は全焼)。直後に通りかかったタナックも同じ場所でコースアウトし、自車への引火を避けようと必死に消火・撤去作業を手伝った[ 29] 。ちなみに、タナックの父親は消防士である[ 30] 。
2020年ラリー・モンテカルロ
ヒョンデデビューとなったラリー。ターマックの高速セクションでコース脇の斜面に飛び出し、マシンがバウンドしながら体操の側転のように縦回転した[ 31] 。ヒュンダイ・i20クーペWRC のフロント部分は滅茶苦茶に潰れたが、クルーは無傷で生還した[ 32] 。
以前はハンドブレーキ のグリップに黄色いアヒル (Duck) のマスコットを付けていた[ 33] 。前述の水没事故ではタナックとコ・ドライバー が車内から脱出した後、浸水に飲み込まれるDuckが車載カメラの映像に映っていた[ 34] 。タナックは「アヒルは水辺に住んでいるから、何とか無事だと思っていたよ」とコメントした[ 35] 。
人物
師のマルコ・マルティン と共に、エストニアを拠点とする企業「レッドグレイ」を立ち上げ、ヒョンデ のラリーカーに関わる事業を行っている[ 36] 。
チャンピオン経験のなかったころから評価は高く、ファン投票で選ばれるドライバー・オブ・ザ・イヤーに2016〜2018年まで3年連続で選ばれている。
2019年より自由選択となるカーナンバーは 8を選択。理由は2018年と同じという理由と日本ではラッキーナンバーであるということによるもの。
勝田貴元 にとっては公私ともに最も深く関わりを持ったWRCドライバーであり、ドライビングの師匠である[ 37] [ 38] 。タナックがTGRから離脱後も、家族ぐるみでの付き合いは続いている[ 39] 。
2022年ラリー・ニュージーランド最終ステージで、順位をキープすればチャンピオンが確定するカッレ・ロバンペラより先にフィニッシュしたタナクは、車中インタビューでいち早くロバンペラ親子とトヨタへのお祝いの言葉を述べ、ファンからそのスポーツマンシップを賞賛された[ 40] 。また同年ラリージャパン でも最終SS直後のインタビューで開口一番「タカ(勝田)はどうだった?」と聞き、表彰台だと聞いて笑顔で「おめでとう!」と言う場面もあった[ 41] 。
2018年ラリー・イタリア・サルディニア で、ティエリー・ヌービル と僅差のトップ争いを繰り広げていたセバスチャン・オジェ /ジュリアン・イングラシア組がタイムカードを受け取り忘れてしまったが、タナックとヤルヴェオヤがこれを届けて無事イベントを走りきった[ 42] 。
タナックのコ・ドライバー のマルティン・ヤルヴェオヤ は、20年の柔道 歴と同国チャンピオンの実績を持つ。また同郷の大関・把瑠都 とも親交がある[ 43] 。
WRCでの年度別成績
* シーズン進行中
脚注
関連項目
外部リンク
WRC
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
WRC2
WRC3
2013 セバスチャン・シャードネット
2014 ステファン・ルフェーブル
2015 クエンティン・ギルバード
2016 シモーネ・テンペスティーニ
2017 ニル・ソランス
2018 エンリコ・ブラゾッリ
2020 ヤリ・フットゥネン
2021 ヨアン・ロッセル
2022 ラウリ・ヨーナ
2023 ローペ・コルホネン
JWRC
2000年代
2001 セバスチャン・ローブ
2002 ダニエル・ソラ
2003 ブライス・ティラバッシ
2004 パー・ガンナー・アンダーソン
2005 ダニ・ソルド
2006 パトリック・サンデル
2007 パー・ガンナー・アンダーソン
2008 セバスチャン・オジェ
2009 マルティン・プロコップ
2010年代
2010アーロン・ブルカルト
2011 クレイグ・ブリーン
2012 エルフィン・エバンス
2013 ポンタス・ティデマンド
2014 ステファン・ルフェーブル
2015 クエンティン・ギルバード
2016 シモーネ・テンペスティーニ
2017 ニル・ソランス
2018 エミール・ベルクヴィスト
2019 ジャン・ソランス
2020年代
2020 フランシス・レナルス
2021 サミ・パヤリ
2022 ロバート・ヴィヴレス
2023 ウィリアム・クレイグトン
PWRC
2000年代
2002 カラムジット・シン
2003 マーチン・ロウ
2004 ナイオール・マクシェア
2005 新井敏弘
2006 ナッサー・アル=アティヤ
2007 新井敏弘
2008 アンドレアス・アイグナー
2009 アーミンド・アラウージョ
2010年代
2010 アーミンド・アラウージョ
2011 ヘイデン・パッドン
2012 ベニート・ゲラ