アリョーシャ・アサノビッチ(Aljoša Asanović、1965年12月14日 - )は、ユーゴスラビア・スプリト(現・クロアチア領)出身のクロアチアの元サッカー選手。ポジションはMF。選手時代はサッカーユーゴスラビア代表、サッカークロアチア代表として選出されている。日本語では「アリョシャ・アサノヴィッチ」、「アリオシャ・アサノビッチ」と表記される事もある。
1980年代後半から1990年代に活躍した。ズボニミール・ボバンやダヴォール・シューケルらと共にクロアチア代表を、同国初のUEFA欧州選手権(1996年イングランド大会)及びFIFAワールドカップ(1998年フランスW杯)に導いた選手として有名である。
左足から、多彩な球種のラストパスで決定期を生み出す、一流のパサーであった[1]。
クロアチア代表監督のブラジェビッチは、「アサノビッチは代表チームの首相である。」と評していた[2]。
クラブ経歴
最初は、地元のハイドゥク・スプリトのユースでキャリアをスタート。1984年に同チームのプロチームに昇格し、6シーズンに渡ってプレーした。この間173試合46得点をマークし、1986-87シーズンには最初のタイトルとなるユーゴスラビア・カップ優勝を果たした。
1990年シーズンより、フランスのリーグ・アンに移籍。メスを皮切りに、カンヌ、モンペリエに所属した。メスでは35試合13得点,カンヌでは28試合7得点,モンペリエでは43試合10得点を挙げ、4シーズンで106試合30得点と活躍した。
1994年シーズンより古巣のハイドゥク・スプリトに復帰。チームは1994-95シーズンの国内リーグ戦と国内カップ戦の2冠を達成した。国内リーグ戦優勝により出場したUEFAチャンピオンズリーグ 1994-95では、予選でレギア・ワルシャワ(ポーランド)相手に2ndレグで2得点を挙げる活躍(この試合は4-0で圧勝)を見せ、クロアチアのクラブ史上初の本戦出場を果たした。本戦のグループリーグでもベンフィカ(ポルトガル)に次ぐ2位で突破し、準々決勝でアヤックス(オランダ)に1stレグで0-0と善戦するも、2ndレグで0-3と敗れたが、これまたクロアチアのクラブ史上初の8強入りを果たした。この大会での活躍が認められ、1995-96シーズンの途中にはリーガ・エスパニョーラのレアル・バリャドリードにレンタル移籍した。
1996-97シーズン、プレミアリーグのダービー・カウンティに移籍、10番を背負い1シーズン半を過ごし、優れたゲームメークを見せるなど、1シーズン目には大きなインパクトを残した[3]。2シーズン目は怪我で限られた出場機会となり[3]、シーズン途中当時セリエAの下位に低迷していたナポリがセリエB降格を回避する切り札として獲得した[4]。しかし度重なる監督交代もあり、15試合に出場したのみで、活躍出来ず、チームはセリエBに降格した[4]。その後はギリシャ・スーパーリーグのパナシナイコス,ブンデスリーガ (オーストリア)のアウストリア・ウィーンを経て、2001年シーズンには初めてUEFA外で、Aリーグのシドニー・ユナイテッドでプレーした。2002年に、古巣・ハイドゥク・スプリトに3度目の復帰をして1試合だけ出場し、現役生活に終止符を打った。
1999年にACヴェネツィア(セリエA)に移籍した名波浩の穴埋めに、ジュビロ磐田フロント陣が、獲得に動いていたが(当時の監督だった桑原隆が獲得を拒否したため、チームは獲得を断念した。
代表経歴
1987年にユーゴスラビア代表に選出され、1988年までに3試合出場した。但し、ユーゴスラビア代表では得点することはできなかった。
1990年にクロアチア代表にも選出。10月17日にスタディオン・マクシミール(ザグレブ)で行われたアメリカ代表との親善試合で先制ゴールを挙げ、これが自身の代表初ゴールとなった[5]。1996年のヨーロッパ選手権ではグループリーグのトルコ戦、デンマーク戦でそれぞれ1アシストを決めて[6]、クロアチア史上初のメジャー大会での決勝トーナメント進出に貢献した。
1997年、6月8日に国立霞ヶ丘競技場陸上競技場で行われた、キリンカップサッカーの日本戦では、0-3でリードされた後半31分と後半40分(FKとPK)に連続して得点を挙げ、代表では初の2ゴールを決めた[7]。
1998年、ワールドカップフランス大会ではグループリーグ6月20日の日本戦で、後半32分に中西永輔を振り切って正確なセンタリングを上げ、これをシューケルが合わせて先制ゴール。この試合の勝利(1-0)の立役者となった[8]。ラウンド16のルーマニア戦でもスーケルの決勝ゴールをアシスト[6]、準々決勝ではフランスに敗れたがこの試合でもスーケルへのアシストを決めた[6]。この大会ではチームの中心選手として全7試合にフル出場[5]、チームの3位に貢献した。
代表には2000年5月28日のフランスとの対戦まで招集され[5]、62試合3ゴールという成績を残している[5]。
引退後
引退後は、2006年よりクロアチア代表のアシスタントコーチを務め、2006年ドイツW杯出場に貢献した。その後、2012年~2013年にはロコモティフ・モスクワ(ロシア)のアシスタントコーチをやった後、2015年よりDAC 1904ドゥナイスカー・ストレダ(スロバキア)のテクニカルディレクターに就いている。
個人記録
代表での成績
- 出典[9]
ユーゴスラビア代表
|
年
|
出場
|
得点
|
1987 |
2 |
0
|
1988 |
1 |
0
|
合計 |
3 |
0
|
クロアチア代表
|
年
|
出場
|
得点
|
1990 |
1 |
1
|
1991 |
1 |
0
|
1992 |
0 |
0
|
1993 |
0 |
0
|
1994 |
7 |
0
|
1995 |
5 |
0
|
1996 |
13 |
0
|
1997 |
8 |
3
|
1998 |
14 |
0
|
1999 |
9 |
0
|
2000 |
4 |
0
|
合計 |
62 |
4
|
獲得タイトル
脚注、出典
外部リンク