アムンセンの南極点遠征(アムンセンのなんきょくてんとうたつ、英: Amundsen's South Pole expedition)は、1910年代初めに、ノルウェーの探検家ロアール・アムンセンが率い、地理上の南極点に初めて達した遠征である。アムンセンと他の4人の隊員が1911年12月14日に南極点に到着した[n 1]。これはテラノバ遠征の一部としてロバート・ファルコン・スコットが率いたイギリス隊に先立つこと5週間だった。アムンセンとその隊は無事にその基地に戻ったが、スコットとその4人の隊員が帰還中に死んだことを後に知った。
アムンセンはナンセンに相談した。ナンセンはフラム号がそのような挙行に唯一適した船であることを主張した。フラム号は1891年から1893年に、ノルウェーの指導的造船業者であり造船技師でもあるコリン・アーチャーが設計し建造していた。ナンセンの厳格な仕様に拠れば、長期間北極海の最も厳しい気象条件に曝されても耐えられるようになっている船だった[17]。この船の最も顕著な特徴は丸くされた船殻であり、ナンセンに拠れば、「氷に捕まれたとしてもウナギのように滑り浮き上がる」というものだった[18]。船殻の強度を上げるために、入手できる中でも最も硬い木材である南アメリカのグリーンハート材で覆われており、横桁や筋交いはその全長にわたって固定されていた[18]。船の横幅は36フィート (11 m) であるのに対し、全長は128フィート (39 m) と、かなりずんぐりとした外観だった。この形が氷の中でその強度を上げたが、大洋では航行性能が悪かった。のろのろと動き、さらに乗り心地を悪くするローリングが起きやすかった[19]。しかし、その外観、速度、航行性能は、数年に及ぶかもしれない航海の間、乗組員のためにしっかりとして暖かい避難所を与えることに比べては、二の次のことだった[20]。
1909年3月、シャクルトンが南緯88度23分、南極点まで97海里 (180 km) に達した後引き返したという発表があり、アムンセンは南極に「小さな片隅が残っている」と考えた[27]。アムンセンは手放しでシャクルトンの功績を称賛し、南極のシャクルトンは北極のナンセンに匹敵すると書き送った[28]。シャクルトンに続いて、スコットは即座に「小さな片隅」に向かい、栄光をイギリス帝国のものとする遠征(テラノバ遠征)を率いる意思を確認した[12]。
フラム号が氷の間に入り、湾の南東隅の入り江に停泊した後、アムンセンは遠征隊の主小屋を建てる場所を、船から2.2海里 (4.1 km) の場所に選定した[72]。6組の犬橇隊が物資をそこまで運ぶために使われ、小屋を建てる工事が始まった。ビアランドとスタッベルードが氷の中深く基礎を据え、傾斜した地面を平らにした。風向きは東からに偏っていたので、小屋は東西方向を軸に建てられ、ドアは西に向いて付けられた。こうすれば風は短い東向きの壁だけで受けることになった[73]。1月21日に屋根が吹かれ、その6日後に小屋が完成した[74]。その時までに200頭のアザラシなど大量の肉が基地に運ばれ、岸の部隊が使うためと、南極点に向かう旅の前に補給所に置かれることになった[75]。この基地は「フラムハイム」すなわちフラムの家と名付けられた[76]。
2月3日早朝、思いがけなくテラノバがクジラ湾に到着した。テラノバはニュージーランドを1910年11月29日に発って、1911年1月初旬にマクマード・サウンドに到着していた。スコットとその本隊をそこで上陸させた後、テラノバはビクター・キャンベルが率いる6人の隊員を載せて、東のエドワード7世半島に向かっていた。この隊は当時まだ良く知られていなかった半島を探検するつもりだったが、海氷のために岸に近づけずにいた。船は上陸できそうな場所を探して、バリアの縁を西に動いているときに、フラム号に出逢った[77]。スコットは以前にアムンセンがその基地をウェッデル海地域に造るものと推測していた。それは大陸の反対側にあった[78]。アムンセンがここに居たことは、南極点への競争を60海里 (108 km) 前から出発できることを意味しており、イギリス隊にとっては警告になった[79]。出逢った2つの隊は互いに丁重に振る舞った。キャンベルとその士官であるハリー・ペネルとジョージ・マレイ・レビックはフラム号船上で朝食を摂り、テラノバ船上での昼食で返礼した[80]。アムンセンはテラノバが無線ラジオを持っていないことを知ってほっとした。それがあれば、極点到達勝利の報せを最初に届けたいというアムンセンの戦略を危険に曝す可能性があった[81]。しかし、キャンベルがスコットのモーター駆動橇がうまく動いていると仄めかすことを言っていたことには心配させられた[82]。それでもアムンセンはイギリス隊にキングエドワード7世半島を探検するための基地としてフラムハイム周辺の場所を使うよう提案した。キャンベルはその申し出を断り、スコットにアムンセンに関する情報を伝えるためにマクマード・サウンドに向かった[83]。
4人の隊が南への旅を始めたとき、バリアに関する知識は以前の探検家が出版した本からのものだけであり、困難な移動条件を予測していた。バリアの表面は通常の氷河表面と似ていることに驚かされた。初日には15海里 (27 km) を進んだ[87]。アムンセンはこのような条件下で犬達が如何に頑張っているかに注目し、イギリス隊がバリア上で犬の使用を嫌っていることを不思議がった[88]。2月14日には南緯80度に達した。そこで補給物資を置いて、帰還の途に就き、2月16日にフラムハイムに戻って来た。
第2の補給所設置の旅は2月22日にフラムハイムを発った。8人の隊員と7台の橇、42頭の犬が出発した[89]。バリアの状態は急速に悪くなっていた。平均気温は 9 °C (16 °F) 落ちており[90]、以前は滑らかだった氷の表面に粗い雪が浮いていた。気温は -40 °C (-40 °F) まで落ちることもある中で、3月3日には南緯81度に達し、第2の補給所を設営した[91]。アムンセンはヘルマー・ハンセン、プレストルド、ヨハンセン、ウィスティングと、最強の犬達と共に先に進み、南緯83度まで達することを期待していたが、困難な状況下で3月8日に南緯82度で停止した[91]。アムンセンは犬達が疲れているのが分かった[92]。隊は帰路につき、橇が軽くなっていたので迅速に進み、3月22日にはフラムハイムまで帰還した[93]。アムンセンは旅が不可能になる極夜が迫っていたので、その前にさらに物資を南に運びたいと思った。3月31日、ヨハンセンが率いる7人の隊がフラムハイムを発って南緯80度の補給所に向かい、このとき殺した6頭のアザラシ、2,400ポンド (1,100 kg) の肉を持って行った[94]。この隊はクレバスの原野で迷った後、予定より3日遅い4月11日に戻って来た[95]。
結局、補給所設置の旅で3か所の補給所を設置し、アザラシの肉3,000ポンド (1,400 kg) と、灯油40英ガロン (180 L) を含む7,500ポンド (3,400 kg) の物資を運んだ[93]。アムンセンはこの旅から多くのことを学んだ。特に2回目の旅で、犬達があまりに重い橇に苦闘したことだった。南極点行のときは犬の数を増やすことにした。必要ならば隊員の数を減らすことも考えた[96]。またこの旅では隊員の間の不和、特にヨハンセンとアムンセンの間のものが出てきた。2回目の旅でヨハンセンは装備の性能に満足していないことを公然と口に出しており、アムンセンは自分の権威に対して挑戦されていると考えた[97][98]。
越冬
フラムハイムでは4月21日に太陽が沈み、その後4か月現れない極夜になった[99]。アムンセンは、ベルギカ遠征で冬の氷の間に閉ざされていた時のような退屈さと士気の低下に気を配っていた。橇を動かす可能性は無かったが、岸の隊は忙しくしていた[100]。緊急を要する事項は橇の改良であり、補給所設置の旅ではうまく動かせていなかった。橇はこの遠征のために特別に選ばれたものに加えて、1898年から1902年にやはりフラム号で行ったスベアドラップの遠征で使った橇数台をアムンセンが持ってきていた。この時アムンセンはそれの方が今後の任務には向いているのではないかと考えた。ビアランドが木製部品に鉋をかけて古い橇の重量をほぼ3分の1だけ減らした。予備にあったヒッコリー材から独自の橇を新たに3台作り上げもした。改装された橇はバリアを横切るときに使い、ビアランドの新しい橇は旅の最終段階、南極台地で使うことにされた[101]。ヨハンセンは橇に積む食料を準備し、ビスケット42,000 個、ペミカンの缶詰 1,320 個、それに約 220 ポンド (100 kg) のチョコレートとした[102]。他の者はブーツ、調理道具、ゴーグル、スキー板、テントの改良を行った[103]。壊血病の危険性と戦うために、冬になる前に大量に集めて凍らせたアザラシの肉を1日2回食べることにした。コックのリンドストロームは、瓶詰のホロムイイチゴ(クラウドベリー)やブルーベリーでビタミンCを補い、また新鮮な酵母を使って焼いた全粒小麦のパンを提供してビタミンBを補った[104][105]。
アムンセンはその隊員と装備に信頼を置いていたが、ハッセルが記録しているように自分はスコットのモーター駆動橇がイギリス隊を成功に導くという恐れに悩まされた[106]。これを考えにいれたアムンセンは太陽が戻ってくる8月下旬になれば直ぐに南極点への旅を始める計画を立てた。ただし、ヨハンセンはその季節ではあまりに寒くてバリアを越えられないと警告した。アムンセンの意見が通り、8月24日に太陽が戻ってきたときに、7台の橇を出発できるようにしておくことになった[107]。ヨハンセンの心配は正当であるように見えた。最初の2週間は気象条件が厳しく、気温は −58 °C (−72 °F) まで下がって、出発を妨げた[108]。1911年9月8日、気温が −27 °C (−17 °F) まで上がると、アムンセンはこれ以上待てないと判断し、8人の隊が出発した。リンドストロームのみがフラムハイムに留まった[107]。
第二シーズン、1911年–1912年
失敗した出発
隊は最初に良いスタートを切った。1日約15海里 (27 km) 進んだ。犬達が一生懸命走ったので、最強のチームの数頭を他のチームに付け替えて進み方のバランスを確保するようにした[109]。隊員のオオカミ皮とトナカイ皮の衣服は移動している間の凍り付く気温にも対応できたが、止まったときに蒸れ、夜もほとんど眠れなかった。犬の足が凍傷になった[107]。9月12日、気温が −56 °C (−69 °F) まで下がり、僅か4海里 (7.4 km) 進んだだけで停止し、風よけにイグルーを立てた[109]。アムンセンはこのとき、その季節ではあまりに早く出発したことを認識し、フラムハイムに戻るべきと決断した。頑固さという理由で隊員や犬の命を無駄にしたくはなかった[110]。ヨハンセンはその日記で、このように長く歴史ある旅をあまりに性急に始めされた愚かさについて記し、またイギリス人を倒すという強迫観念の危険性についても記していた[111]。
9月14日、フラムハイムに戻る途中で、南緯80度の補給所に装備の大半を残し、橇を軽くした。翌日、強風と凍るような気温の中で、犬数頭が凍死し、他にも弱って歩けない犬は橇の上に乗せられた[112]。9月16日、フラムハイムから40海里 (74 km) に来て、アムンセンは隊員にできるだけ早く帰るよう命令した。アムンセンは自分の橇を持っていなかったので、ウィスティングの橇に飛び乗り、ヘルマー・ハンセンとそのチームと競争になり、他のものを置いて行った。この3人は9時間後にフラムハイムに到着し、その2時間後にスタッベルードとビアランドが続き、その直ぐあとにハッセルが戻った[113]。ヨハンセンとプレストルドはまだ氷の上であり、食料も燃料も無かった。プレストルドの犬が倒れ、その踵が酷い凍傷になった。彼らは夜半過ぎにフラムハイムに到着し、戻り始めてから17時間以上経っていた[114]。
このように災難に近いものがあったが、隊は1日に15海里 (27 km) 以上進んだ。南緯82度の補給所には11月5日に到着した。その経路の3マイル (5 km) 毎に雪のブロックで作ったケアンで印をつけた[121][122]。11月17日、バリアの縁に到達し、南極横断山脈に直面した。シャクルトンが開拓したベアドモア氷河を進むことにしたスコットとは異なり、アムンセンはこの山脈を抜ける独自のルートを開拓する必要があった。数日間その麓を探り、約1,500フィート (460 m) 登った後、隊ははっきりした経路と見られるものを発見した。それは険しい長さ30海里 (56 km) の氷河を上り、上の台地に繋ぐものだった。アムンセンはこれを、資金的に主要な後援者の1人にちなんで、アクセル・ハイバーグ氷河と名付けた[123][n 7]。そこは隊員が予測したよりも厳しい登りだった。回り道をする必要があったためにかなり長くなり、また雪は深く柔らかだった。3日間苦労して上った後に氷河の頂点に達した[123]。アムンセンはその犬達を手放しで褒め、そのような条件では働けないだろうと思っていたことを冷笑した。11月21日、隊は17海里 (30 km) 進み、5,000フィート (1,500 m) 登った5,000フィート (1,500 m).[124]。
南極点への行軍
氷河の頂点、標高10,600フィート (3,200 m) は南緯85度36分であり、アムンセンは旅の最終段階に備える支度をした。ここまで登って来た45頭の犬(7頭はバリアの段階で死んだ)のうち、18頭のみが前に進むこととし、残りは食料のために殺された。橇を御していた者のそれぞれが自分のチームの犬を殺し、皮を剥ぎ、その肉を犬と人間で分けた。アムンセンは「我々はその場所を肉屋と呼んだ」と回想している。「隊の中に抑鬱と悲しみがあった。我々はそれほど我々の犬達を好きになっていた」と記した[125]。その後悔は豊富な食料を楽しむことで補われた。ウィスティングは特に肉の処理と提供で技能があることが証明された[126]。
12月8日、隊はシャクルトンの樹立していた最南端記録南緯88度23分を通過した[129]。南極点に近づくに従い、別の遠征隊が自隊より前に行っていないか、景色を遮るものを探していた。12月12日に宿営しているときに、一瞬地平線の上に黒い物体が現れたが、これは自隊の犬が遠くで落ちている姿が鏡で拡大されたことが分かった[130]。翌日、隊は南緯89度45分で宿営した。南極点まで15海里 (27 km) だった[131]。さらに翌日の1911年12月14日、午後3時頃に、アムンセンは橇の前を移動していた仲間と南極点の近傍に到達したことを確認した[132]。隊員はノルウェーの国旗を立て、その台地を「ノルウェー王ホーコン7世の台地」と名付けた[133]。アムンセンは後にその成果を皮肉と共に振り返った「その願望とこれほど全く反対の目標を達成した者はいない。北極点の周辺は悪魔が取ったのであり、それは子供のときから私を魅了していた。そして今は南極点に立っている。これほど狂気じみたものがありえるだろうか?」[134]
12月18日、隊はフラムハイムへの帰還の旅を始めた[137]。アムンセンはスコットより先に文明世界に帰り、最初にニュースを伝えると決めていた[138]。それでも1日の行程を15海里 (27 km) に制限し、犬や人の力を温存させた。24時間の白夜の中で、概念上の夜の間に移動し、常に太陽を背にして雪盲の危険性を減らした。来る時に作った雪のケアンに導かれ、1912年1月4日には「肉屋」に着き、バリアに降り始めた[139]。スキーを履いていた隊員は「滑降」できたが、橇を御するヘルマー・ハンセンとウィスティングの下りは不安定だった。橇は御しにくく、クレバスに遭遇したときに急停止できるよう、滑走部にブレーキを取り付けた[140]。
1月7日、隊はバリアの上に設けた補給所の最初の所に到着した[141]。アムンセンは速度を上げられると考え、その後は15海里 (27 km) 進むごとに6時間休憩し、次の行程に入るやり方にした[142]。これによって1日30海里 (54 km) 進み、1月25日午前4時にフラムハイムに帰って来た。10月に出発した時に52頭いた犬のうち11頭が生還し、2台の橇を曳いてきた。南極点に達し、帰還する旅には99日を要したが、予定より10日早かった。全行程1,860海里 (3,440 km) だった[143]。
^ アムンセンは遠征隊を海の隊と岸の隊の2つに分けていた。海の隊はニールセンの指揮下にフラム号で航海することとしていた。岸の隊はアムンセン、プレストルド、ヨハンセン、ヘルマー・ハンセン、ハッセル、ビアランド、スタッベルード、ウィスティング、リンドストロームの9人だった。The South Pole, Vol. I, p. 179, では、アムンセンが岸の隊からウィスティングを外したとしている[86]
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