しのだ ひでお(1939年11月15日[1] - 2022年8月20日[2]、本名:篠田英男[1])は、日本の漫画家。元大垣女子短期大学教授・副学長。鳥取県日野郡溝口町(現・西伯郡伯耆町)出身[1]。篠田ひでおとも表記。もっぱら小学館の学年誌や学研の雑誌等に掲載される児童漫画の領域で活躍した。
経歴
鳥取県立鳥取西高等学校卒業後、1958年(昭和33年)[3]に上京し、19歳の時に手塚治虫のアシスタントとなり[1]、1959年(昭和34年)、20歳で少女漫画で独立しデビュー[3]。
上京時に手塚が引っ越したあとの並木ハウスの部屋を譲ってもらい、近所のトキワ荘へたびたび遊びに行っていたことから藤子不二雄の両人と親しくなり、藤子スタジオの社員ではなかったにもかかわらず、専用の机が用意され、『怪物くん』『黒イせぇるすまん』などの多くの作品で作画協力アシスタントを務めた。
「藤子不二雄としのだひでお」の名義で発表された『ぼくんちのタコくん』(1965年〜1967年)は、安孫子素雄としのだの合作。翌年から連載された『ベラボー』(1968年〜1969年)は藤本弘としのだの合作である。『ベラボー』は「藤子不二雄 協力・しのだひでお」名義で連載されたが、のちに「藤子不二雄としのだひでお」名義となった。
1969年の秋には『ドラえもん』と『モジャ公』の連載開始で藤本が多忙となったため、『ドラえもん』と同時掲載となった『ウメ星デンカ』7回分(3誌の合計)の作画をしのだが担当した。藤本が原稿用紙にラフな人物配置とネームを書き、しのだが下描きとペン入れを行った[5]。
児童誌でのテレビコミカライズ作品を多く手掛けたが、『コロコロコミック』に連載した「藤子不二雄のまんが入門」や「ドラえもんの発明教室」でも知られ、学習漫画の分野でも数多くの作品を執筆している。
弟の篠田伸夫が岐阜県副知事だった縁から、1995年より大垣女子短期大学デザイン美術科で非常勤講師として教え、のち同教授ならびに副学長を務めたが、2011年に退任した。以降は日本総合ビジネス専門学校の客員教授を務めていた。
2022年8月20日、病気のため死去[2]。82歳没。死去のニュースは同年10月に公表された[2]。
作品リスト
その他
脚注
出典
参考文献
外部リンク