西川 恒山(にしかわ こうざん)は江戸時代中期の佐渡奉行所地役人。両津夷にある村雨の松の植樹者。
経歴
延享2年(1745年)佐渡奉行所定床屋番役となり、切米20俵・3人扶持を受けた。宝暦2年(1752年)夷湊番所役、宝暦3年(1753年)代官支配、宝暦12年(1762年)夷湊番所定番役、明和5年(1768年)佐渡奉行支配。
長年夷で閑職に甘じていた間、鈴木北湖の詩社で鈴木逸甫・鈴木金峰・中山漸廬・藤沢子山等と詩文を研鑽した。また、番所裏手に漁師等の目印となるようクロマツを植えたところ、後世大きく成長し、明治34年(1901年)尾崎紅葉により「村雨の松」と命名され、昭和31年(1956年)3月23日新潟県天然記念物に指定された[3]。
明和7年(1770年)山方役に転じた。安永4年(1775年)1月前年分地方・銀山方勘定仕上げのため江戸勤務を命じられ、7月赴任し、安永5年(1776年)8月帰郷した。天明元年(1781年)にも同じく江戸に勤務し、天明2年(1782年)8月帰郷した。龍草廬・片山兼山に漢詩の添削を受けた。
天明3年(1783年)公事方役、寛政3年(1791年)与力格広間役、文化元年(1804年)金蔵定番役、20人扶持。文化2年(1805年)老衰のため退職し、9月16日(11日とも)71歳で病死し、大安寺に葬られた。
先祖
- 西川長右衛門
- 藤兵衛とも。伊勢国に生まれ、九鬼守隆に仕え、元和4年(1618年)佐渡奉行所地役人となった。寛永16年(1639年)11月2日没。
- 西川藤兵衛
- 承応2年(1653年)出仕し、隠居後休我と号し、元禄13年(1700年)3月5日没。
- 西川長右衛門
- 母は内藤治郎右衛門娘。元禄元年(1688年)出仕し、正徳3年(1713年)隠居し、正徳4年(1714年)6月2日没。
- 西川長右衛門広明
- 仙田八兵衛と安岡肥前娘の子。初名は儀太夫。正徳3年(1713年)出仕し、享保9年(1724年)4月1日目付役、享保13年(1728年)3月18日吟味方役。享保16年(1731年)4月29日隠居し、享保17年(1732年)7月7日57歳で死去。
- 西川儀太夫敦救
- 鳥井嘉右衛門と矢渡藤右衛門娘の子。享保16年(1731年)出仕し、延享2年(1745年)12月2日没。
家族
- 母 - 西川長右衛門娘。
- 妻 - 仁木門右衛門娘。
- 子:西川明雅
脚注
参考文献
外部リンク