藤原 豊継(ふじわら の とよつぐ)は、平安時代初期の貴族。名は豊嗣とも記される。藤原京家、神祇伯・藤原大継の子。官位は従五位下・豊前守。
経歴
天長2年(825年)従五位下に叙爵。
仁明朝に入り、承和3年(836年)天皇の守護と遣唐使の帰国祈願を目的として、下総国香取郡の伊波比主命ら四柱の大神に位記を奉っている(この時の官職は中務少輔)[1]。
承和5年(838年)左少弁、承和8年(841年)従五位上に叙任され、のち右中弁に昇進する。右中弁の官職にあった承和12年(845年)に他の4人の弁官と共に、法隆寺の僧侶・善愷による同寺の壇越であった少納言・登美直名の告訴の審理を行い、直名に遠流の判決を下す。しかし、翌承和13年(846年)になって、審理に参加しなかった右少弁・伴善男がこの訴訟事件に関連して5人の弁官が私曲を行ったとして弾劾を行う。結局、弾劾は認められ、豊継は他の弁官と共に解官の上、贖銅10斤を課された(善愷訴訟事件)[2]。さらに、承和14年(847年)には位記を破棄され、翌嘉祥元年(848年)になって一階下の従五位下に再叙されている。
官歴
注記のないものは『六国史』による。
系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
- ^ 『続日本後紀』承和3年5月9日条
- ^ 『続日本後紀』承和13年11月14日条
- ^ 『尊卑分脈』
出典