紀 田上(き の たうえ/たがみ)は、平安時代初期の貴族。大納言・紀船守の三男。官位は従四位下・尾張守。
経歴
桓武朝の延暦22年(803年)従五位下に叙爵し、延暦23年(804年)内厩助次いで相模介に任ぜられ地方官に転じる。平城朝に入ると大同元年(806年)従五位上・相模守、大同3年(808年)正五位下に叙任されるなど順調に昇進する。
大同4年(809年)相模守の任期を終えて帰京するが、平城上皇に従い平城京に移る[1]。大同5年(810年)正五位上次いで従四位下に続けて昇叙される。同年9月に発生した薬子の変に際しては、6日に嵯峨天皇の信頼が篤い坂上田村麻呂・藤原冬嗣と共に平城京の造宮使に、10日には尾張守に任ぜられるが、結局平城上皇側で活動したらしく、変平定後の15日には佐渡権守に左遷されている。
天長元年(824年)平城上皇の崩御に伴い罪を赦されて帰京するが、天長2年(825年)4月13日卒去。享年56。最終官位は散位従四位下。
人物
武芸を家業とする紀氏の中にあって、華やかな才能があるとして評判が高く、政務にあたっては民心を失うことがなかったという[1]。
官歴
『日本後紀』による。
系譜
脚注
- ^ a b c 『日本後紀』天長2年4月13日条
- ^ 『続日本後紀』承和7年10月5日条
- ^ a b 『尊卑分脈』
参考文献