精忠組(せいちゅうぐみ)は、幕末の薩摩藩に存在した藩内組織。誠忠組とも。
近思録崩れの秩父季保が愛読した『近思録』を輪読する会を西郷吉之介(西郷隆盛)・大久保正助(大久保利通)・長沼嘉兵衛(早世)・有村俊斎(海江田信義)・税所喜三左衛門(税所篤)・吉井仁左衛門(吉井友実)・伊地知竜右衛門(伊地知正治)らが結成し、後にそれが発展したものである。彼ら自身が「精忠組」、「誠忠組」を名乗った事実はなく、後世の命名である。
安政の大獄期、僧月照とともに入水した西郷隆盛(蘇生した後、奄美大島潜伏を命じられた)を盟主的存在とし、大久保・堀仲左衛門・岩下方平らが主導した。水戸藩と共同して大老井伊直弼を暗殺し京都への出兵を行おうとする「突出」を計画したが、藩主島津茂久およびその実父で後見役の島津久光から軽挙妄動を抑制されて頓挫した。結局井伊暗殺には有村次左衛門のみが参加(桜田門外の変)し、それを国元へ伝えた兄の有村雄助は切腹処分となる。藩当局の対応に不満を懐く一派はあくまで突出を主張したが、大久保らがそれを抑えた。
久光はその後、精忠組の取り込みを図り、大久保・税所・堀・吉井らを側近として抜擢し、活躍させた。文久2年(1862年)に久光は、精忠組の主張する「突出」に代わり、幕府改革を企図した出兵を実行に移す[1](詳細は文久の改革を参照)。しかし精忠組の中でも有馬新七ら過激派は、真木保臣・清河八郎ら諸国の尊王攘夷派志士らと連携し、孝明天皇奪還計画などに加わり、久光の説諭にも従わなかった。有馬らが集結する旅館寺田屋に向けた久光からの上使として奈良原繁・大山綱良らが最後の説得を行うが、交渉は決裂、精忠組の同士討ちとなる寺田屋騒動が発生した。ここにおいて精忠組の結束は事実上崩壊した。
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