第80独立空中強襲旅団(だい80どくりつくうちゅうきょうしゅうりょだん、ウクライナ語: 80-та окрема десантно-штурмова бригада)は、ウクライナ空中機動軍の旅団。空中機動軍司令部隷下。
1955年5月3日、ソ連空挺軍第7親衛空挺師団隷下の第80親衛落下傘連隊としてリトアニア・ソビエト社会主義共和国で創設された[1]。
1956年11月、ハンガリー動乱に投入された[1]。
1960年、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国に移駐した[1]。
1968年8月、プラハの春に投入された。
1969年2月、赤星勲章を授与された[2]。
1979年11月、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国リヴィウ州に移駐し、部隊増強に伴い、第39独立空中強襲旅団に改編された[1][3]。
1980年1月、アフガニスタン紛争に投入された[1]。
1986年4月、チェルノブイリ原子力発電所事故に災害派遣された[1]。
1990年1月、ナゴルノ・カラバフ戦争に投入され、治安維持軍としてナゴルノ・カラバフに駐留した[1]。
1990年6月、訓練施設化に伴い、第224空挺訓練センターに改編された。
1991年12月、ソビエト連邦の崩壊とウクライナの独立で創設されたウクライナ陸軍に編入した。
1995年11月、空挺部隊化に伴い、第6独立空中機動旅団に改編された。
1999年12月、部隊縮小に伴い、第80独立空中機動連隊に改編された[1]。
2004年12月、イラク戦争に派遣され、イラク駐留軍としてイラクに駐留した[1]。
2013年11月25日、部隊増強に伴い、第80独立空中機動旅団に改編された。
2014年3月、ロシアのクリミア侵攻の影響に伴い、第1空中機動大隊、第3空中機動大隊が中部ポルタヴァ州、ロシアと国境を接する北部スームィ州に配備された。以後はドンバス戦争で東部ドネツィク州、ルハーンシク州に再配置された[4]。
2014年10月、第3空中機動大隊が新編の第81独立空中機動旅団隷下に転属した。
2016年、新設されたウクライナ空中機動軍に編入され、戦車中隊を新編し、第80独立空中強襲旅団に改編された。
2022年2月24日、ベラルーシと国境を接する北部キーウ州チェルノブイリに配備されていたが、団員がタバコを吸うため外出したときにロシア軍のロケット弾攻撃が始まり、ロシアのウクライナ侵攻は開戦した。ロシア軍の10個大隊戦術群がウクライナ領に侵入し、進軍を遅延させるためチェルノブイリとイヴァンキウを結ぶ橋を爆破して戦わずに撤退した。戦わなかった理由を問われ団員は「敵のことを知る必要があった。それでそうした」と述べた[5]。夕方には友軍と合同でアントノフ国際空港を解放してブチャ地区を防御し、3月にロシア軍の進軍は停止(キーウのロシア軍車列)した[6]。
2022年3月、南部ムィコラーイウ州ボズネセンスクに再配置され、迂回してムィコラーイウ包囲を狙うロシア軍を撃退した[7]。
2022年5月、激戦地の東部ルハーンシク州セヴェロドネツィク地区に再配置され、7月にリシチャンシクが陥落してロシア軍はルハーンシク州を全面占領した[8][9]。
2022年6月28日、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領から、勇気と勇敢さに対する栄誉賞を授与された[10]。
2022年9月、北東部ハルキウ州イジューム地区に再配置され、第25独立空挺旅団、第92独立機械化旅団と合同で攻勢を開始し、ハルキウ州の大部分を解放した[11][12][13]。
2022年9月、1個空中強襲大隊が激戦地の東部ドネツィク州バフムート地区に再配置され、ロシア軍の攻勢をシヴェルシクで撃退した[14]。2023年2月に全隊が再配置され、旅団が補給拠点のチャシウ・ヤール、第57独立小銃大隊はバフムート郊外のイヴァニウスケ(バフムート・フロマーダ)に配置されて後方連絡線を防御した[15][16]。第3大隊戦術群のアンドリー・ルカニウク大隊長が戦死した[17]。
2023年3月、第3大隊戦術群(第87独立空中機動大隊(ウクライナ語版))を基幹に第82独立空中強襲旅団が創設された[18]。
2023年7月、第5独立強襲旅団、リュート旅団と合同で攻勢を開始し、クリシチウカ(バフムート・フロマーダ)を解放した[19][20]。
2023年11月21日、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領から、名誉称号「ガリツィア」を授与された[21]。
2024年2月、1個空中強襲大隊が激戦地の東部ドネツィク州ポクロウシク地区に再配置され、マリンカ・フロマーダに展開した[22]。
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