田中家(たなかけ)は、武家・華族だった日本の家。土佐藩重臣深尾家家臣の浜田家に生まれた田中光顕が幕末に田中を称したのにはじまり、維新後、宮内大臣など要職を歴任した光顕の勲功により華族の伯爵家に列せられた。
歴史
田中光顕まで
田中光顕は幕末に田中を称するまで浜田姓であった。父充美(文化12年12月18日生、明治13年12月24日没)が浜田家の来歴について述べたところによれば、浜田家は土佐国東部に発しており、長宗我部氏に仕えて諸所の戦場で戦功を挙げたと伝わるも名前は不詳で、『土佐物語』にも数名の浜田姓の者が出てくるが誰とは定め難いという。しかしそれらは先祖か同族であろうと充美は述べている。
また天正14年(1586年)12月12日の豊後国戸次川の役の際に長宗我部信親に従って戦死した浜田姓の者があると聞いた充美自身が吾川郡長濱村にある長宗我部氏の菩提寺香華院雪蹊寺を訪れて調べた結果、戸次川で戦死した人名の中に浜田仁兵衛、浜田左衛門、浜田源十郎、浜田彌三の4名があったという。
その後大坂の陣でも長宗我部盛親に従って徳川方と戦って功を挙げたが、結局長宗我部氏は徳川に滅ぼされ、浜田家は流浪の身となったという。土佐の長濱村に住んで長宗我部氏の菩提を弔っていたが、徳川方の土佐藩主山内一豊による弾圧から逃れるために高岡郡加茂村の内馬場という場所へ移って百姓となったという。
笠之丞という者の代に妻が土佐藩家老家の佐川領主深尾重照の乳母に召し出されたことで佐川へ移り1人半扶持という微禄を与えられた。その後、善作、笠之丞正満、善作、文右衛門繁盈を経て、光顕の祖父である宅右衛門光章が再び深尾家に仕えて御勝手役兼御勘定役を務めた。天保5年9月に光章が死んだあと、光顕の父充美が後を継いで2人半扶持を与えられた。
光顕は江戸期の生活の貧しさを回顧し、米の飯など年に2、3回しか食えず、麦やキビ、芋などを食ってなんとか生きながらえていたという。
田中光顕伯爵家
田中光顕は幕末に土佐勤王党の志士として尊皇攘夷運動に身を投じた。元治1年(1864年)に脱藩した際に浜田から田中に改姓。その後丙寅丸に乗って長州藩軍とともに幕軍と戦ったり、中岡慎太郎の陸援隊に加入するなど国事に奔走した[6]。特に慶応3年(1867年)の侍従鷲尾隆聚の高尾山挙兵の際には参謀を務めて功があった。
徳川幕府が滅した後、政府に出仕し、大蔵省に入省して大蔵少丞に就任。明治4年(1871年)には岩倉使節団の一員として欧米に渡る。帰国後には陸軍会計監督に就任し、西南戦争では征討軍会計部長として従軍し功があった[6]。
明治14年(1881年)には陸軍少将に任官。また参事院議官、元老院議官を歴任して、明治20年(1887年)5月に維新の功により華族の子爵に列せられた。その後も会計検査院院長、警視総監、学習院院長などを歴任し、明治31年(1898年)より宮内大臣に就任、以降11年にもわたって宮内大臣に在任したことで宮中に大きな勢力をもった[6]。明治40年(1907年)9月に多年の功により伯爵に陞爵した。退官後は維新の志士たちの顕彰運動に余生を捧げ、多摩聖蹟記念館、常陽明治記念館、高知青山文庫の建設や維持に努めた[6]。
長命だった光顕が昭和14年3月28日に没した時、実子の圭(明治5年7月15日生、昭和5年12月30日没)はすでに先立っていたため、岩神昴次男の遜が養子として爵位と家督を相続した。彼は襲爵前に高知県選出の衆議院議員を務めていた。また東洋コンプレツソル会社を創立した実業家でもある。彼の代の昭和前期に田中伯爵家の住居は東京市渋谷区氷川町にあった。彼も昭和17年7月5日に死去したため、その子の光素が家督と爵位を相続するも昭和21年5月に願って爵位を返上した。彼が昭和25年2月18日に没した後は弟の光季(大正10年6月25日生)が当主となった。彼の代の平成前期に田中家の住居は東京都品川区小山にあった。
系図
- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 下巻』に準拠。
- 系譜注
脚注
出典
参考文献