烏碣岩の戦い (ウケツガンのたたかい) は、万暦35年 (1607) 旧暦正月末から翌月初にかけて李氏朝鮮領内で発生した、満洲国マンジュ・グルンと烏拉国ウラ・グルンとの間の戦役。その名称については、主戦地である「烏碣巖」の名を冠した「烏碣巖の戦い」や「蜚悠城及烏碣巌の戰」[1]の外、『光海君日記』には「門岩之敗」[2]や「文巌大敗」[3]という記載もみられる。
ウラの支配下にあった東海瓦爾喀ワルカ部の蜚悠城フィオ・ホトンがマンジュへの徙民を請願したことに端を発し、護送のためにヌルハチが派遣したマンジュ軍と、フィオの離叛を阻止すべくブジャンタイが派遣したウラ軍が烏碣岩で交戦したが、猛将ボクドを頂き数で勝るウラ軍が潰滅した。その結果ウラは図們江トゥメン・ウラにおける覇権を失い、マンジュが東方へ勢力を拡大するきっかけとなった。
図們江トゥメン・ウラの下流域とその沿海地方[注 1]には、東海ワルカ部と呼ばれる野人女直の一種が雑居し、李氏朝鮮側はこれを兀良哈オランカイと呼び慣わした。ヌルハチは天命元年 (明万暦44年:1616) 以前からこの地域に出兵し勢力拡大を図っていたものの、トゥメン・ウラ流域から支流の嘎呀河にかけては、17世紀初めまでは烏拉国ウラ・グルンの勢力下にあった。[4]
遡ること万暦21年 (1593) に古勒山戦役で大敗し、マンジュで囚われの身となっていたブジャンタイは、同24年 (1597) 、兄マンタイ (第三代ウラ国主ベイレ) の死を承けてウラに帰還し、第四代国主ベイレに即位した。[5]李朝の文献に拠れば、おそくとも宣祖24年 (明万暦19年:1591) までにウラは李朝の領土を侵犯し始め、同33年 (28年:1600) には穏城 (現北朝鮮咸鏡北道穏城郡北部) 周辺を掠奪し、[6]同36年 (31年:1603) に鍾城 (現穏城郡南部) などを焼き払って多数の人畜を掠奪した。[7][4]翌年には李朝に官職を要求し、[8]李朝の拒絶に遭うと、ウラ国主ベイレブジャンタイ親ら軍を率いて潼関を灰燼にし、多数を殺害して制圧した。[4]李朝は反撃するもウラの伏兵に遭って失敗し、同年旧暦7月に官職を与えて媾和にいたった。[4]
こうしてブジャンタイは東北方面に力を注ぎ、10年足らずで東はトゥメン・ウラ、北は黒龍江アムール・ウラ、西は現吉林省松原市前ゴルロス自治県県境、東北は海浜地区まで領土を拡げた。[5]東海ワルカ部の居住地一帯で採取される天然資源はその頃のウラにとって貴重な収入源であり、対明貿易もウラの壟断的状況下にあった。[9]
そのころ、ワルカ部の中にウラ支配から脱却せんとヌルハチを訪ねるものが相継いだ。[4]かねてよりヌルハチは真珠や黒貂の毛皮など稀少な天然資源の利権を求めて、[5][注 2]トゥメン・ウラから烏蘇里江ウスリー・ウラ方面への進出を狙っていたが、そこに舞い込んだのが瓦爾喀ワルカ部の蜚悠城フィオ・ホトンとその周辺部落の帰順であった。
万暦35年 (1607) 旧暦1月[11]、東海瓦爾喀ワルカ部の斐優城フィオ・ホトン[注 3]城主アムバンの策穆特赫ツェムテヘ[注 4]は、ヌルハチの許を訪れ、満洲国マンジュ・グルンへの徙民 (帰順し移住すること) を願い出た。フィオはそれまで烏拉国ウラ・グルンに従属してきたが、ウラ国主ベイレのブジャンタイからの苦虐に遭い続けていた。[12][注 5]
フィオ一族の護送を頼まれたヌルハチは、弟シュルハチ、長子チュイェン (ホン・バートル)、次子ダイシャン、およびグヮルギャ氏フュンドン、トゥンギャ氏フルハン[注 6]に兵3,000を預け、フィオへ派遣した。[12]
フィオへの道中、一行が暗い夜道を進んでいたとき、天から一筋の眩い光が大纛アムバ・トゥ[14][15]の上に差した。旗を検めてみても異状はないのに、堅てるとまた光る。シュルハチはこれを凶兆とみて撤退を主張した。[注 7]しかしヌルハチの二子は、「『旗が光ったから帰ってきました』などと言い訳するつもりか」とシュルハチの主張を斥け、行軍を強行した。[12]
尚、この「光る大纛」については、ダイシャンの昆孫にあたる昭槤がその著書『嘯亭雜錄』巻8「禮烈親王纛」において、昭槤の邸宅に飾られている纛頂には「銅火焔」(火焔を象った銅製の装飾具) ではなく「生鐵明鏡」(銑鉄製の鏡) が懸けられていると述懐し、蓋し戦捷を記念してのものであろうと推測を加えている。[注 8]
フィオに着いた一行は、周辺の村々から民衆を集めた。[12]ツェムテヘの一族500人を先づさきに出発させるべく、フルハンに兵300を隨はせて出発させると、[12]後続部隊はフィオ・ホトンに火を放ち、周辺部落ともども一切を焼き払ってその地を後にした。[9]
一方、フィオ民を従えて道を急いでいたフルハンの前には、ブジャンタイが派遣したウラ兵10,000が待ち受けていた。[注 9]門岩地名[注 10]附近にウラの大軍をみとめたフルハンは山の上にツェムテヘの一族500人を集め、兵300のうち100人を割いて護衛にあたらせた。さらに後続隊に救援を求めるべく人を遣わし、その夜、ウラ兵10,000とフルハンの兵200は、谷を挟んで向かい合った山にそれぞれ陣を張り対峙した。[注 11][12]
翌朝、規模にしてフルハン隊の50倍に上るウラ兵の襲撃が始まった。マンジュからは武将ヤングリがウラ軍に斬り込みをかけ、その際に一人が命を落とした。対してウラ軍は七人が斬伐され、出鼻をくじかれて河を渡り、山上に逃げ込んだ。[12]
両者の対峙が続いたころ、マンジュ軍の後続隊が未の刻 (13-15時) にようやく到着した。ヌルハチの二子、チュイェンとダイシャンは、ウラの大軍を目の前に怯みがちな兵を叱咤し、奮い立ったマンジュ軍とともに一斉にトゥメン・ウラを渡った。チュイェンとダイシャンはそれぞれ兵500を従え、山上を二手にわかれてウラの陣営を挟撃した。[12]
ダイシャンはさらにウラ軍を率いて走り去る主将ボクドをみつけて追撃し、追いつくやボクドの兜の角を左手で掴み、右手に握った剣でその首級をあげた。ボクドの子も陣中で殺害され、常住チャンジュ父子と胡里布フリブは身柄を拘束された。ウラ軍は3,000人が陣歿、馬5,000と甲冑3,000が鹵獲された。その時、それまで晴れ渡っていた空は忽ちに雲に覆われ、大吹雪となった。負傷したウラ兵は鎧兜を脱ぎ捨て、武器を投げ出し、馬牛をも置いて倉皇都と逃走したが、[18]大吹雪の中で多数が凍死した。[12]
一方、撤収するときになってシュルハチは兵500を従え山の麓にいた。両軍の間で激戦が繰りひろげられていた頃、シュルハチは谷に沿って進軍したために到着が遅れ、戦闘にはほとんど参加しなかった。[12]
常書と納斉布の二将軍は、兵100人を連れてシュルハチと一所に止まり、敵討滅に向わなかった為にヌルハチの怒りを買った。シュルハチの懇請により、常書は銀百両、納斉布は領民の没収を言い渡され、死罪を免れた。[19]
戦いに敗れたウラ国は豆満江流域への影響力を喪失した。大部分の東海女真がなおもウラ国に従属しているとは言え、建州部が東海各部に続く要路を切り拓いたことで、この後、ウェジ (窩集) 部、クルカ (庫爾喀) 部などがヌルハチ一連の征討と懐柔を受けて次第に建州部の支配下に組み込まれ、建州部の兵源へと変貌していく。[9]また、シュルハチと常書、納斉布の二将軍は、実際は山上で進軍を止め傍観策を採ったともされ、[20]この時の行動が後に兄・ヌルハチとの決裂を招く要因となった。[21]
また、李氏朝鮮にとっても本戦役は、外患を排除してくれたという正の面がある一方で、そこに新たな外患 (ヌルハチ勢力の伸長) が生まれたという負の面もあった。[18]
Lokasi Pengunjung: 3.15.149.82