フュンドンは、スワン (蘇完) 地方グヮルギャ氏女真族。
後金建国五大臣の一人。満洲鑲黄旗人。[1][2]
フュンドンの祖先はグヮルギヤという土地に住み、地名に肖ってグヮルギヤ氏を名告った。グヮルギヤ氏は子孫が非常に栄え、スワン (蘇完)、イェヘ、ネイェン (訥殷)、ハダ、ウラ、アンチュラク (安褚拉庫)、フィオ (蜚悠城)、ワルカ (瓦爾喀)、ジャムフ (嘉木湖)、ニマチャ (尼馬察)、ホイファ、シャンギヤン・アリン (長白山) …と周辺地域にひろく拡散した。
フュンドンの父祖であるスワン地方グヮルギヤ氏は上記の中でも最も栄え、その家系は三人の兄弟から始まったとされる。長男はフォルホ、次男はニヤハチ、三男はジュチャといった。その後、長男・フォルホはスワンにのこったが、次男・ニヤハチはシベ (席北) へ、三男・ジュチャはワルカを経て、最終的にシルヒ・アンガイ・ジハの渡口に移住した。
その後、ジュチャからスルダ、王・ジャルダ、マンカニ、ロロ、チャンカニ、ソルゴと世代は受け継がれ、ソルゴの代でスワン部主となると、その十人の子の時代が最盛期となった。
明万暦16(1588)年、ソルゴが部民500戸を率いて清太祖ヌルハチに帰順した。[3]当時25歳[4]のフュンドンは弓矢に秀で、10石[5]余の強弓を引くことができたという。主君に忠実で進言憚らず、ヌルハチの抜擢で一等大臣に叙任され、ヌルハチの長子チュエン(褚英)の娘(格格)を娶ってスワン・エフ(蘇完額駙suwan efu、スワンの皇婿の意)と呼ばれた。[6]姉婿・兌秦巴顔に叛意ありと知るや之を誅滅した。ジャルグチ(扎爾固斉)の職(一種の裁判官)に奉じ、「費英東扎爾固斉」[7]とも呼ばれた。[8]
万暦26(1598)年正月、ヌルハチはワルカ(瓦爾喀)部噶嘉路の攻取およびその酋長・阿球の殺害をフュンドンに命じた。また、フュンドンはチュエン、バヤラ(巴雅喇)と共にワルカ部のアンチュラク(安褚拉庫路)を征伐、兵1,000を率いて屯寨20余を攻略し、所属部落を併合した。[9][10]
万暦27(1599)年9月、イェヘ部とハダ部が搆兵し、ハダ部ベイレのメンゲブル(孟格布禄)からヌルハチに援軍要請が来ると、フュンドンとガガイ(噶蓋)は兵2,000を率いてハダ部の守護に当った。しかし事態が収束するやハダ部は明に奔り、奸計が漏れたハダ部はこれに由り滅んだ。[11]
万暦35(1607)年正月、ワルカ部フィオ(蜚悠)城の酋長ツェムテヘ(策穆特黒)から所部をヌルハチに帰属させたいと要請があり、フュンドンはシュルハチ(舒爾哈斉)らに随い兵3,000を率いて周辺住民500戸を収容し、侍衛フルガン(扈爾漢)に兵300(500とも)を与えて護送させた。妨害を図るウラ部ベイレ・ブジャンタイ(布佔泰)の兵1万が出動し対峙したが、フュンドンらの軍が相継いで到着するに及びウラの兵は大敗を喫した。[12][13]同年5月、バヤラ(巴雅喇)に随い東海ウェジ(渥集)部[14]を征討、ヘシヘ(赫席赫)など[15]を攻取し、2,000人の俘虜を得て帰還した。[16]
万暦39(1611)年7月、ウェジ部のウルグチェン(烏爾古宸)[17]、ムレン(木倫)[18]2路が他路の太祖恩賜の甲[19]を掠めた為、フュンドンはアバタイ(阿巴泰)に随い1,000人を率いて之を討伐し、1,000余人の俘虜を得て帰還した。[20]
万暦41(1613)年、ヌルハチに随いウラ部を討滅。[21]
万暦43(1615)年、元号制定、八旗創設に伴ってフュンドンは鑲黄旗に隷属し、左翼グサイ・エジェン(固山額真)に就任した。ヌルハチは五大臣の一人にフュンドンを据えて輔弼させ(他4人はエイドゥ(額亦都)、フルガン(扈爾漢)、アン・フィヤング(安費揚古)、ホホリ(何和礼))[22]、一等大臣、ジャルグチを兼任させた。[23]
天命1(1616)年、ヌルハチが後金建国。[24]
天命3(1618)年、明と搆兵し撫順に進攻。張承廕(総兵)が騎兵10,000を率いて加勢し応戦したが、フュンドンの指揮下で之を撃破。ヌルハチは「万人敵」と嘆賞したと云う。[25][26]
天命4(1619)年、明が大挙して進攻。サルフ(薩爾滸)山山頂に駐屯する杜松(総兵)に対し、フュンドンは左翼に拠って諸グサ(旗)と連携し奮戦、杜松の戦死により明軍は大敗した(サルフの戦い)。[27]同年8月、ヌルハチのイェヘ部討伐に従軍。石や松明が降り注ぐ中、ヌルハチの退去命令を振り切って居城を陥落させた。ヌルハチが投降を勧告するもギンタイシ(金台石)は受容れず。ギンタイシを捕縛させイェヘ部を滅ぼした。[28][29]フュンドンはその数々の勲功により一等子爵に叙位され、都統を歴任した。[30]
天命5(1620)年3月、ヌルハチにより武功爵(武官の爵位)が定められ、フュンドンは三等総兵官に叙位された。[31]同月、死没(57歳)[32]。ヌルハチはその死を悼み、夜通し亡骸の側で泣き通したという。[33]同年9月、ヌルハチはムルハチ(穆爾哈齊)の供養のため出郊した折、フュンドンの墓を訪い、自ら酒を注いで供養した。[34]
天聡6(1632)年、太宗ホンタイジにより直義公と追号された。[35][36]
崇徳元(1636)年、盛京(現遼寧省瀋陽市)に太廟(陵墓)が建造され、フュンドンを合祀した。[36][37][38][39]
康熙9(1670)年、聖祖康熙帝は墓碑に自ら「其功冠諸臣,為一代元勳」(其ノ功諸臣ニ冠シ,一代元勳ト為ス)と刻んだ。[40]
康熙37(1698)年、康熙帝は盛京太廟でフュンドンの過去の勲功に思いを馳せ、自ら供養し、更に官吏を派遣して祭祀させ、碑文を自ら認ためた。[41]
順治16(1659)年、世祖順治帝の勅旨により三等公に陞叙された。[42][43]
雍正9(1731)年、世宗雍正帝の勅旨により信勇公と加号された。[44][45]
乾隆43(1778)年、高宗乾隆帝の勅旨により一等公に陞叙された。10人の子があり、図頼に伝記あり。[46]
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