東映東京撮影所 (とうえい とうきょうさつえいじょ)は、東京都 練馬区 東大泉 に存在する映画スタジオ 。
かつては敷地内に、東映アカデミー も存在していた(2011年 3月31日 閉鎖)。その東映アカデミーと本社直属の東映俳優センターを統合した所属俳優・声優のマネジメント部門として、同2011年11月1日 に「東映株式会社 東京撮影所 マネージメント部 」(2024年4月より俳優事業部 、通称「東映マネージメント」)を設立した。本項ではこれについても記述する。
概要
映連 加盟の大手映画会社 である東映 の事業所。
通称「大泉撮影所 」「東映大泉 」。俳優や映画など業界内では単に「大泉」と略称されることもある。
敷地内には、東映テレビ・プロダクション 、特撮研究所 、東映アニメーション といった関連の各企業を内包する。
東映となってからは70数年であるが、撮影所自体は新興キネマ が現代劇部用に開所して以来90年と長い歴史を有する。
2023年11月現在の所長は東映の執行役員も兼務する木次谷良助で、東京撮影所制作作品にはプロダクション統括としてクレジットされている。
沿革
前史
戦前は「新興キネマ 東京(大泉)撮影所」として1934年 (昭和9年)10月に開所(当時は東京市 板橋区 東大泉町 )、同社の現代劇部として稼動が始まった。1942年 (昭和17年)、新興キネマが日活 および大都映画 と合併して大映 になるとすぐに閉鎖された。
戦後の1947年 (昭和22年)、五島慶太 が率いる東急 資本により「株式会社太泉スタヂオ 」が設立され、貸しスタジオとなる。この時代に新東宝 がスタジオを借りて黒澤明 監督による『野良犬 』が撮影された。株式会社太泉スタヂオは「太泉映画株式会社 」と改称して自社製作に乗り出す。
東映のスタジオとして
オープンセット跡地に開業したプラッツ大泉 (西友 リヴィン オズ大泉店)
1951年 (昭和26年)4月1日 、東横映画 、太泉映画、東京映画配給 の3社が合併して東映株式会社 を設立。太泉映画スタジオは「東映東京撮影所」、東横映画撮影所は「東映京都撮影所 」となった。東京映画配給の配給・興行機構は、本社・支社、直営映画館 として東映という企業体を構成した。
かつて日活調布撮影所 に銀座 の街並みを再現したオープンセットがあったように、大泉にも街並みを再現したオープンセットがあった。そのオープンセット跡地には、1983年 (昭和58年)4月23日 にショッピングセンター 「プラッツ大泉 」が開業し[ 1] 、核店舗 として西友 オズ大泉店(1999年からはリヴィン オズ大泉店[ 2] [ 3] )が開店した。現在でも映画やテレビドラマ のロケ地 として、特撮 やショッピングシーンなどの撮影に使用されている。
また旧正門のあたりには、シネマコンプレックス 「T・ジョイ SEIBU 大泉 」が併設されている。同施設の館内には東京撮影所に関わった経営者・映画監督・俳優の手形や写真パネルが展示されている。
2002年2月28日に地上5階・地下1階建て、敷地132.43坪、延床面積686.35坪の新本館ビル「G.STUDIO」が竣工した。「G.STUDIO」のG には、舞台などの控室を指す「Green Room」や、撮影に訪れた俳優が出入りすることから「Guest」、竣工当時は所内最大の施設であったことから「Giant」など、複数の意味が込められており、東京撮影所のキャスティングプロデューサーである福岡康裕によって命名された[ 4] 。
2010年 6月には東映ラボ・テック と共同で、総合ポストプロダクション施設「東映デジタルセンター」および次世代VFX技術の研究開発部門「ツークン研究所」を敷地内に設立[ 5] 。VFX・CG・バーチャルプロダクションを含めたトータルなポスプロ体制を作る。
近年のバーチャルプロダクション に対応するため、2022年 10月、東京撮影所に専門部署「バーチャルプロダクション部」を発足。それに伴い2023年 1月、No.11ステージに横30m×縦5mのLEDウォールを設置。インカメラVFX対応型とする。映画会社が自社でLEDスタジオを保有・運用するのは国内初になる。
付記
1987年 8月28日に新日本プロレス が「戦国合戦シリーズ」第5戦を大泉の東映東京撮影所で開催するなど[ 6] 、プロレス 団体が敷地内に特設リングを設置して興行を行うことがある。
2020年 (令和 2年)3月31日 、日刊スポーツ が「新型コロナウイルス感染症 関連で撮影所が封鎖された」[ 7] と報道したが、誤報 (デマ)であった[ 8] 。東映は当該報道を受け、同年4月3日に公式サイトで「3月31日に『撮影所封鎖』なる一部報道がされましたが、当日は撮影所は一切封鎖はしておらず、この報道に関しては誤報でございます。撮影所としては保健所との協議の上での対応と、更なる予防策の強化を実施しており、現在も通常運営を行っております。」と発表した[ 8] 。
主なフィルモグラフィ
劇場用映画
『昭和残侠伝 唐獅子牡丹 』(1966年)
近年の劇場映画
テレビドラマ
東映東京制作所
1965年 7月[ 9] [ 10] 、東京撮影所と京都撮影所 内にそれぞれ、東映東京制作所、東映京都制作所(のち東映太秦映像 )が新設された[ 9] [ 11] [ 12] 。東映の自社製作が減っていた現状を鑑み、貸しスタジオやテレビ映画 、テレビドラマ 、コマーシャルフィルム などの製作を行うための組織改革とされたが[ 9] 、実際は過激な組合活動家 を押し込むための組織であり[ 11] [ 13] [ 14] 、佐伯孚治 や折田至 ら160人がここへ移動させられた[ 10] [ 15] 。特に東京制作所は契約者 が労働組合 「東映東京制作所契約者労働組合」(東制労)を結成し[ 10] 、同じ敷地内の東京撮影所、東映動画(東映アニメーション )、東映テレビ・プロダクション の組合活動家を糾合し、"東制労闘争"として会社に対する労組攻勢 を強めた[ 10] [ 16] 。出身者に植田泰治[ 14] 、やまさき十三 [ 10] [ 17] 、呉徳洙らがいる[ 10] 。1984年 の『高原に列車が走った 』は、ここを強権発動で潰したいと考えた岡田茂 東映社長に植田泰治が啖呵を切り[ 14] 、東京制作所出身者を中心に製作されたもので[ 14] 、東映は長年、岡田が好きな映画だけが作られてきたが[ 14] [ 18] 、同作は岡田が唯一、作りたくなかった映画といわれる[ 14] 。
キャスティング部門
俳優 ・声優 のキャスティング を手掛ける。2014年 に声優のキャスティング業務をマネージメント部からキャスティング部へ移管した[ 19] 。
過去の所属声優
キャスティング担当作品
東映マネージメント
2011年 11月1日 に本社直属の「東映俳優センター 」と東京撮影所の一部門である「東映アカデミー 」を統合し誕生。正式名称は「東映株式会社 東京撮影所 俳優事業部 」。事務所は東映本社内に置かれている。
所属俳優
2024年9月現在。
過去の所属俳優
T・ジョイSEIBU大泉
T・ジョイSEIBU大泉 (ティ・ジョイセイブおおいずみ、英語 : T・JOYSEIBUOIZUMI )は、東映東京撮影所のOZ STUDIO CITYに所在するシネマコンプレックス 。東映の子会社である株式会社ティ・ジョイ が「T・ジョイ大泉 」の名で2001年に開業した[ 26] 。9スクリーン合計で車椅子席含めた1592人を収容できる[ 23] 。同社と西武リアルティソリューションズ による共同事業体への移行に伴い、2016年 4月1日 に「T・ジョイSEIBU大泉」に改称した[ 27] 。
スクリーン詳細[ 23]
No.
座席数
3D対応
備考
通常
車椅子
1
429
2
○
2
201
1
3
166
1
4
235
2
○
5
117
1
6
74
1
7
160
1
○
8
90
1
9
109
1
脚注
出典
注釈
関連項目
外部リンク
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東映東京撮影所 に関連するカテゴリがあります。