木村 仲久(きむら なかひさ、1938年11月26日 - 1999年3月29日[1])は、日本の写真家。全日本写真連盟や二科会にて活動した。
写真集団影法師、写真集団山月会影法師を創立。主宰を歴任。写真集「静岡の民家」で林忠彦賞受賞。受賞作品は山口県周南市美術博物館に貯蔵。静岡県の職員という傍ら、写真においては静岡を拠点とした指導者的な役割を担っていた。長年撮り続けた富士山の写真集「富士秀景」は静岡県の作品として国外の要人への贈呈品とされている。
概要
静岡県の職員として勤務しながら、全日本写真連盟や二科会にて全国的に写真家としても活動した[2][3]。写真家のグループとして「影法師」を設立するなど[4]、静岡県の写真界にて指導的な役割を担っていた[2]。
来歴
生い立ち
1938年(昭和13年)、静岡県志太郡大井川町(現・焼津市)にて生まれた[2][3][1]。1957年(昭和32年)、静岡県立静岡高等学校卒業[5]。日本大学に進学し[2][3]、工学部の土木工学科で学んだ[2]。卒業後は静岡県庁に入庁した[2][3]。
写真家として
静岡県の職員として勤務する傍ら、アマチュア写真家としても知られており[3]、全日本写真連盟や二科会にて活動した[2][3]。1971年(昭和46年)、写真家のグループとして「影法師」を創立し[4]、その主宰者となった[4]。また、1996年(平成8年)には「写真集団山月会」を発足させており[4]、影法師は「写真集団山月会影法師」となった[4]。地元である静岡県において、写真界の指導的な役割を担っていた[2]。写真集「静岡の民家」で林忠彦賞受賞。アサヒカメラへの掲載も多く、大竹省二、秋山庄太郎との親交も深かった。
1999年(平成11年)、肝臓癌のため60歳で死去した。写真集団山月会影法師は、中村明弘が第2代主宰となった[4]。
作品
1989年(平成元年)頃、静岡県の職務として歴史的な建築物や街並みを撮影することになり[6]、静岡県内の民家や神社仏閣など100か所を回った[6]。その際に心ひかれた民家を厳選し[6]、1993年(平成5年)に『静岡の民家――木村仲久写真集』として上梓した[7]。同書には、安直楼[8]、正雪紺屋[8]、黒田家代官屋敷[2][8]、加茂荘など[8]、計34か所の作品が収録されている[6]。これらの作品は、優れた記録性だけでなく[6]、歴史の重みを再現するカメラアイが特徴である[6]。拡張高く端正な構成で[2]、人の暮らしとの関わり合いから重厚な佇まいが表現されており[2]、単なる建築写真ではないと評価された[2]。その結果、1994年(平成6年)に第3回林忠彦賞が授与されることになり[6]、受賞作は周南市美術博物館に収蔵された。
また、長年にわたって富士山を撮影し続けており、それらの作品をまとめた写真集として『富士秀景』を上梓した[9]。同書は静岡県の写真集として、国外からの要人に対する県の贈呈品として選ばれている。1998年(平成10年)4月、日ロ首脳会談のため静岡県伊東市を訪れたボリス・エリツィンにも贈呈された。
家族・親族
娘のウィリアムス浩子は歌手として活動している[10]。
略歴
賞歴
著作
単著
共著
編纂
脚注
関連項目
外部リンク