株式会社日本興業銀行(にっぽんこうぎょうぎんこう、英: The Industrial Bank of Japan, Limited)は、かつて存在した日本の特殊銀行・普通銀行・長期信用銀行。
明治維新後の重工業の発展や、軍需工業の拡大、第二次世界大戦後の復興と高度経済成長を外債発行により支え、日本からの資本輸出にも携わった。最末期の2000年からはみずほフィナンシャルグループの傘下に入っており、みずほコーポレート銀行を経て、みずほ銀行の前身行の一つとなった。
通称は「興銀(こうぎん)」、英略は「IBJ」。
官僚である前田正名の提言『興業意見』に基づき、農工業の振興を目的に1897年(明治30年)に設立された日本勧業銀行は、養蚕、紡織、食品など農業と密接した軽工業を主な融資対象としており、日露戦争を契機に急成長した製鉄、造船、電力などの重工業は除外されていた。一方、日露戦争後の日本経済の発展と、その副作用としての恐慌(特に1890年と1898年)は国内資本の不足を露呈し、産業界では外資導入の必要性が叫ばれた。しかし企業単独で外資を調達するのは困難であり、政府保証の下外債を発行し、国内重工業への融資を行う、いわば「工業の中央銀行」(後述の『日本興業銀行法』案提案趣旨説明より)たる新金融機関の構想が、産業界で立てられていった[1]。
1899年1月、議員提出法案として「日本興業銀行法」案が第13帝国議会に提出された。しかし政府は、外債に限るとはいえ、元利金支払いを政府が保証するという条項に難色を示し、対案として「動産銀行法」案を上程した。内容は、外債債務の政府保証規定が無い点以外は、ほぼ「日本興業銀行法」案と同じだった。両法案は、政府案に政府保証規定を挿入する形で統合され、衆議院を通過したが、貴族院は政府保証規定を削除して修正可決した。衆議院は修正案を否決し直後に解散したので、一旦廃案となった[1]。
次の第14帝国議会で再上程された「日本興業銀行法」案は、政府保証規定や外債発行を巡って紛糾したが、結局政府保証規定は削除、外債発行については法律では定めない事になり、紆余曲折を経て成立にこぎつけ、翌年3月に公布。1902年に設立総会を開き、資本金1000万円(当時の国家予算の1割強に相当)で営業を開始した[1]。
後述する金融債を発売する際、一般大衆への知名度の低さがネックとなった。戦後の1952年頃より、興銀ではキューピー人形をキャラクターに採用。以降、債券窓口やショーウインドーにキューピー人形を設置し、グッズの配布や債券総合口座の「普通預金ご利用控え」(事実上の普通預金通帳)の表紙にキューピー人形の顔をあしらうなど周知徹底させ、「興銀はキューピーの銀行」のイメージ作りを行った。なお、大口顧客や個人投資家向けの相談窓口の名称は「キューピーファミリー相談室」で、債券総合口座の残高案内に添付されていた機関紙の題号は「きゅーぴーだより」であった。キューピーを用いた広告はみずほフィナンシャルグループ入り後の2002年1月頃まで『あるじゃん』などで出稿されていた。
1950年代から1960年代にかけて、川又克二、日高輝、水島廣雄ら興銀出身者が次々と問題企業の再建に成功し、興銀は当時の人気テレビドラマになぞらえて財界の益荒男派出夫(ますらおはしゅつふ)会の異名をとった。
以下に示す個人でも購入可能な金融債商品は、後にみずほ銀行に引き継いでいる。
なお、現在は財形金融債のみ新規発行を受け付けており、窓口販売は終了している。
Category:みずほフィナンシャルグループの人物を参照。一覧にもれた人物の一部を以下に示す。