川上 宗薫(かわかみ そうくん、1924年4月23日 - 1985年10月13日)は、日本の小説家。本名はむねしげと読み、筆名もむねしげと読ませていた時期がある[1]。愛媛県生まれ。
日本基督教団メソジスト派の牧師、川上平三の子として[2]愛媛県東宇和郡宇和町卯之町(現在の西予市)に生まれる。大分県と長崎県で小学校時代を送り、1937年、鎮西学院中等部(現・鎮西学院高等学校)に首席入学[3]。第七高等学校や長崎高等商業学校の入試に失敗し[4]、1943年、西南学院高等学部商科に入学[5]。1944年秋、長崎県大村の陸軍連隊に入隊。しかし肋膜炎を意図的に悪化させ、敗戦までの約1年間を入院患者として過ごす。
1945年8月9日、母と2人の妹を長崎原爆で喪う。このため父は棄教[6]。宗薫は退院の手続きが偶然遅れたために被爆を免れた。
1946年に西南学院専門学校商科を卒業し、九州大学法文学部哲学科に入学、のち英文科に転科。1947年6月に最初の妻と入籍。大学に在籍する傍ら、長崎女子商業高等学校で英語を教えて生計を立てる[7]。1948年3月、長女が誕生。1949年12月、大学4年生の時、『西日本新聞』の懸賞論文に『文学作品を読むこととは』を応募し三等に入選、賞金1000円を獲得。このころ学友会文藝部で小説を書き始める。1949年6月、『九大文学』に処女作『綿埃』を発表。同じ頃、同誌に川上翠雨の筆名で俳句を発表。
ウィリアム・ブレイクで卒論を書いて1950年に英文科を卒業した後、海星高等学校で教鞭をとるも1学期で退職し、千葉県東葛飾郡柏町(現・柏市)に移住。1950年から千葉県立東葛飾高等学校夜間部で英語を教える[8]傍ら、北原武夫に師事して小説家を志す。1952年、同人誌『新表現』『日通文学』に参加。1955年、『企み』を『文學界』に、『或る目醒め』を『群像』に発表して商業デビューを果たす。1954年から1960年まで芥川賞候補に計5回挙がったが受賞を逸する[9]。この間、1958年、『新潮』6月号に『文学をよそうと思う』を発表[10]。
1959年、友人の水上勉が服の行商のかたわら書き上げた長篇『霧と影』を、河出書房の編集者坂本一亀に紹介する。だが、その後売れっ子作家となった水上に傲慢な振る舞いがあったことから、1961年、『新潮』6月号に短篇小説『作家の喧嘩』を発表。文壇的成功で先を越された自らの心情を戯画化した作品だったが、この作品のモデルにされた水上勉から名誉毀損で訴えられそうになり、菊村到や田畑麦彦に調停を依頼したが失敗。このため複数の新聞社の文化部記者に「小説に書かれたことを事実と思わないでくれ」と懇願し、『朝日新聞』の匿名コラムで「世の中には変わった作家もいるものだ。自作を宣伝するためにこんなことを言って歩いている」「作家にあるまじき卑劣な根性」と批判されたことがある(この匿名コラムの筆者は百目鬼恭三郎だった[11])。一方、水上の側でも川上夫妻をモデルに小説『好色』を書いた[12]。このとき、川上の妻と思しき女性の陰部に関する事実めかした描写によって川上夫妻は大きく傷つけられ、特に川上夫人は自殺まで考えたという[13]。この『作家の喧嘩』事件については、川上の親友の佐藤愛子も『終りの時』の題で小説化した。
この間、1960年に東葛飾高等学校を退職していたが、水上勉とのトラブルにより文芸誌からの註文が途絶え、持込原稿すら拒絶されるようになったため[14]、大村彦次郎編集長の誘いで大衆文学の世界に進出。『小説現代』1966年6月号に発表した『リボンの過失』で中間小説誌デビューを果たす。1968年頃から官能小説の分野に進出[15]、「失神派」と呼ばれるに至る。1969年、水上と川上の共通の友人である佐藤愛子の直木賞受賞を機に水上と和解[16]。
流行作家になってからは妻子と別れ、中野新橋の芸者と所帯を持ち、銀座の複数ホステスと同棲し、最後は30歳下の音大生と結ばれた。
1979年、食道潰瘍の手術を受ける。1984年、リンパ腺癌が発見される。東京女子医科大学病院で闘病生活を送った後、1985年10月13日、東京都世田谷区成城の自宅にて死去。61歳没。川上の一番弟子を名乗る作家に浅利佳一郎がおり、浅利による読物小説「わが師、川上宗薫」(『小説新潮』掲載)の中に川上の最期を看取った夫人への誹謗表現があり問題となった[17]。
川上の死後、未亡人は京都に引っ越したため、成城の旧川上邸は、色川武大が一時、間借りした。
川端康成は川上の愛読者であり、ある出版社から現代文学全集が企画されたとき、編集委員の一人として川上の作品を推したことがあった[18]。筒井康隆もまた川上の純文学作品を高く買っており、『夏の末』を読んで感動のあまり一晩眠れなかったことがあると語っている[19]。一方、師の北原武夫は川上の自伝的小説『流行作家』を贈られた際、その読後感として「君は生れながらに絶対に傷つくことのできない人なのです。失恋や何かしてちよつと傷ついても、その傷は永くは君の中に止まらず、すぐさまそれが癒えてしまふ人なのです」「その点、さういふものを必至の心の糧とする純文学といふのは元来君にとつては不向きで今のやうな仕事の方がずつと君には向いてゐます」(1973年3月9日付川上宛書簡)と批評した[20]。
原爆で3人の家族を喪ったにもかかわらず、原爆体験についてほとんど何も書かなかった。「ああいうことを売りものにしたくないんだ」と発言したこともあった[21]。例外的な作品の一つが初期の『残存者』であった。
ポルノ小説を書くにあたっても必ず「取材」をした。その際の女性との交渉を「仕入れ」、女性器を「構造」と呼んだ。
床上手としても名を馳せ、友人の吉行淳之介から「君の小説は全て実体験を書いているが、作品の中で女性が失神を繰り返すのを読むと、こんなことはあり得ないと思う読者もいるんじゃないかと思うんだ」と言われた時は「そういうことはむしろ控えめに書いている方だから」と笑って答えた[22]。女性雑誌に「お手伝いさん募集」の広告を出した時には、川上に手を付けられることを期待した全国の女性から応募が殺到したこともある[23]。「性豪」と呼ばれることもあったが、実際には身長163センチ、体重55キロの小柄な体格だったので、初めて会った女性から「もっと大きい人かと思ったわ」「もっとギラギラした感じの人かと思ってました」と言われることが多かった[24]。
また、一時は自宅内で行う「ピンポン野球」に凝り、ハイレベルになるまで熱中した。
山藤章二のもとに突然電話をかけ、何の前置きもなく「巨人の山倉は、これからPTAに出かけるんで厚化粧した母親、って感じがしない?」と発言し、山藤を驚かせたことがある。山藤は川上の『わが好色一代』における「本屋の書棚に作家別の耳札が並んでいる。その中に自分の名を見たことがない。一縷の望みを抱いて捜す眼になる。その眼を店員か誰かに見られたのではないかと、万引でもした男のような心理で本屋から逃げ出す」という記述にいたく感動し、「名を成した作家として、こんな凄い文章は滅多に書けるものじゃない」と称賛した。川上の幼児性が好きだった山藤は、『笑っていいとも!』の友達の輪に自分の次のゲストとして紹介したが、生番組であるにもかかわらず川上は「尻の穴のふちどりにもいろいろあって…」と発言し、司会のタモリを慌てさせた[25]。
巨大で獰猛な犬を好み、『闘犬記──アメリカン・ピット・ブル』(新潮社、1985年)のように犬に関する薀蓄を傾けた著書もある。犬に限らず猛獣が好きであり、その理由について「これは、自分の中に、<自分は弱者だ>という意識があるせいにちがいない。強いものへの憧れである」と語っている[26]。闘犬愛好家でもあり、前述の本の中で自らのことを「愛犬家の敵である」と書いている。
プロレスも好きであったが、「誰が一番強いか」という話題にこだわり、話相手となった村松友視を閉口させた。
また、晩年は糸井重里の「萬流コピー塾」に参加して名取[27]となったり、同じく糸井の企画である「夕刊イトイ」に参加するなど、旺盛な好奇心を持ち続けた。
この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。