山本 榕室(やまもと ようしつ、1809年7月7日 - 1864年2月20日)は江戸時代後期の医者、本草学者。父山本亡羊の次男として本草学に通じ、採薬記など多くの著作を残した。百々鳩巣、池内陶所と共に平安三才子と称された。父亡羊百品考の著作を助け、読書室蔵書の充実に務めた。18歳年下の弟山本章夫(山本渓愚の描いた肖像画
が伝わる。
生涯
文化6年7月7日(1809年8月17日)本草学者山本亡羊の次男として生まれた。西国各地へ勢力的に採集を行い、伊勢国を訪れた際は津城内で津藩主に講義を行った。天保8年(1837年)水戸藩より直根人参の生育法を尋ねられ、大和国吉野郡で調査を行った[3]。
安政年間錦小路頼易が開いた医学館に百々鳩巣と共に登用され、毎月本草学を講義した。安政6年(1859年)父亡羊が死去すると、2年間物産会を引き継いだ。
長年胃病に悩まされ、元治元年(同日元治に改元)2月20日(1864年3月27日)死去し、23日出棺、25日妙顕寺で葬儀が行われた。
著書
親族
- 父:山本亡羊 - 本草学者。
- 母:玲子 - 華頂宮臣青木如水二女。天明8年(1788年)12月13日生、享和2年(1802年)5月25日結婚、嘉永5年(1852年)2月18日没。
- 兄:山本本太郎 - 文化6年(1809年)7月7日生、夭逝。
- 弟:山本弦堂 - 秀夫、秀五郎。医業を修め、新政府に出仕した。
- 弟:山本渓愚 - 章夫、藤十郎。画業を修めた。
- 弟:山本確斎 - 正夫、余一郎。鳥飼に医業を開いた後、新政府に出仕した。
- 弟:山本楓庭 - 善夫、十二郎。富田に医業を開いた後、度会県大属を務めた。
- 弟2名、姉妹4名は夭逝。
- 子:山本復一 - 太政官。
脚注
参考文献
外部リンク