山本家(やまもとけ)は、桓武平氏と称する禰寝氏の庶流である武家・士族・華族だった日本の家。近世には薩摩藩主島津氏に仕えていたが、近代に第16代・第22代内閣総理大臣を務めた山本権兵衛海軍大将を出し、その勲功により華族の伯爵家に列せられた。
歴史
山本権兵衛まで
華族の伯爵となる山本権兵衛の山本家は、桓武平氏高望流の平重盛(小松内大臣)の子孫と称し、鎌倉時代以降大隅国禰寝南俣を領してきた禰寝氏の庶流の一つである。禰寝氏嫡流家の当主禰寝清治の五男清高が禰寝院山本のうち光松邊田皆尾を領したことから山本を称するようになったのに始まる。
初代清隆の玄孫の清景は1357年に畠山國久に属して救仁郷胡麻崎城の落城に貢献したという。
戦国時代の山本備前守の代に島津義弘に仕え、様々な戦争で功を挙げた。朝鮮出兵にも従軍している。この備前守以降、山本家は明治維新で皇室を主とするまで島津氏に仕え続けた。ただし権兵衛の生家の山本家は、本家ではなく、権兵衛の系譜上の曽祖父にあたる盛備が創設した分家である。盛備は薩摩藩から家禄36石を受け、庭奉行に任じられて役料27俵を与えられた。盛備の兄盛福の三男盛賢が盛備の養子に入って跡を継ぎ、祐筆を務めて役料48俵を与えられ、その後郡奉行も務めている。
その息子が権兵衛の父である盛珉(五百助)である。
山本権兵衛伯爵家
山本権兵衛は、盛珉の六男であった(嫡男ではなかったので、明治前期には山本家を継いだ兄の戸籍に入っていたが、明治24年(1891年)3月20日に至って分家して戸主となっている)。権兵衛は16歳にして戊辰戦争に従軍した後、明治初期に海軍兵学寮に入学し、明治7年(1874年)に卒業。ついでドイツ海軍に留学して帰国した後の明治10年(1877年)に海軍少尉に任官し、以降海軍軍人としてキャリアを積む。「天城」「高雄」「高千穂」各艦の艦長、海軍省主事、軍務局長,大本営参謀官などを歴任し、日清戦争の作戦指導にあたった[10]。明治31年(1898年)の第2次山縣内閣に海軍大臣として入閣して以降明治39年(1906年)までの各内閣で海相に在任し続けた[10]。この間の明治35年(1902年)2月に日英同盟の功により華族の男爵に列した。海軍拡張計画をすすめ、日露戦争の指導にあたり日本の勝利に貢献した[10]。その功績で明治40年(1907年)9月に伯爵に陞爵した。大正政変後の大正2年(1913年)には立憲政友会と結んで組閣し、第1次山本内閣を成立させたが、翌3年のシーメンス事件により引責辞任[10]。関東大震災直後の明治12年(1923年)にも再組閣したが、虎ノ門事件により引責辞任した[10]。
権兵衛が昭和8年(1932年)12月8日に死去した後、昭和9年(1933年)1月15日に長男の清(明治16年12月17日生、昭和35年7月5日没)が爵位と家督を相続。彼の代の昭和前期に山田伯爵家の住居は東京市芝区高輪台町にあった。清の子清二(明治40年9月25日生、昭和23年3月30日没)は戦病死したので、その子衛(昭和13年12月4日生)が祖父清の後を継いだ。彼は石川島播磨重工業に勤務していた。彼の代の山本家の住居は東京都港区高輪にあるマンションにあった。
系図
- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『伯爵山本権兵衛伝 巻上』および『平成新修旧華族家系大成 下巻』に準拠。
- 系譜注
脚注
出典
参考文献