宮下 文夫(みやした ふみお、1892年(明治25年)11月11日 - 1963年(昭和38年)4月1日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
1892年(明治25年)に福島県で生まれた。陸軍士官学校第25期卒業。1938年(昭和13年)7月4日に駐蒙軍高級副官となり、7月15日に陸軍歩兵大佐に進級。日中戦争に出動した。1939年(昭和14年)に仙台陸軍教導学校学生隊長を経て、1940年(昭和15年)に歩兵第83連隊長に就任し、中国戦線に復帰。中原会戦に参加、濁流の黄河を渡河し戦果を収めた。
1942年(昭和17年)に陸軍少将に進級し、第8独立守備隊長に転じた。1943年(昭和18年)に第1歩兵団長を経て、1944年(昭和19年)に独立歩兵第11旅団長に就任。武漢北方の警備に当たった。1945年(昭和20年)4月に陸軍中将に進級し、第160師団長に親補される。朝鮮・群山の警備に当たったが、同年5月23日に朝鮮軍管区司令部附となった。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[3]。
栄典
- 勲章
脚注
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」84頁。
- ^ 『官報』第5148号「叙任及辞令」1944年3月14日。
参考文献