宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年5月12日〉 - 1942年〈昭和17年〉12月26日[1][2])は、日本の内務官僚、政治家。幼名は慎平。富山県知事、東京府知事、貴族院議員などを歴任した。
山形県士族宇佐美駿太郎の弟[3]。
経歴
米沢藩士(馬廻組、100石[4]。上杉斉憲〈戊辰戦争時の米沢藩主〉の御側役[4])で、戸長を務めていた宇佐美勝作の二男として生まれる。米沢中学、第一高等学校を経て、1896年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入り内務属として県治局に配属された。同年10月、文官高等試験に合格。
1897年4月26日、徳島県参事官に就任[5]。以後、京都府参事官、内務書記官[6]・宗教局[7]、宗教局第一課長兼第二課長、大臣官房文書課長、兼内務省参事官などを歴任。
1908年3月28日に富山県知事に就任[8]。1910年6月14日に退任して、統監府参与官に転じた[9]。その後、韓国政府内務次官、朝鮮総督府内務部長官[10]、兼同府土木局長[11]などを経て、1921年5月27日に東京府知事に就任[12]。1925年9月、東京府知事を退任し賞勲局総裁に就任。資源局長官を経て、1933年2月、満州国国務顧問に就任した。
1934年7月3日、貴族院勅選議員に任じられ[13]、同和会に属し死去するまで在任[1][14]。その他、維新史料編纂会委員、国家総動員審議会委員などを務めた。墓所は青山霊園。
栄典
- 位階
- 勲章等
家族・親族
池田成章の三女よし(芳子)との間に譲(夭折)、三菱銀行頭取・日本銀行総裁を歴任した洵、宮内庁長官を務めた毅と格(子に三菱ふそうトラック・バスの会長を務めた宇佐美隆)の四子を得たが死別した。成章の次女みつ(光子)はまだ独身で、妹の死後は子供達の世話をしており、家族の意向で再婚した(洵が「おばさんと暮らしたい」とせがんだという)。しかし、みつもスペイン風邪で病死し、更に後、四谷トクを後妻とした。トクとの間には一子の新(太平洋戦争で戦病死)がいた。
義兄に日銀総裁を務めた池田成彬が、義弟に三菱銀行頭取を務めた加藤武男がおり、妻の姪・敏(池田成彬の長女)は三菱財閥3代目総帥・岩崎久弥の次男で三菱製紙会長を務めた岩崎隆弥に嫁いでいる。
伝記
- 故宇佐美勝夫氏記念会『宇佐美勝夫氏之追憶録』故宇佐美勝夫氏記念会、1943年。
脚注
参考文献
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
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