「太祖滅輝発国」[1](フルキ・ハダの戦/ ホイファ・ホトンの戦)[2]は、マンジュ・グルン (満洲国) のヌルハチが、フルキ・ハダに建つホイファ・ホトンを攻略して城主・バインダリを誅殺し、ホイファ・グルンを討滅した戦役。
ホイファ国主・バインダリは、万暦21 (1593) 年旧暦9月のグレ・イ・アリンでの戦闘に参加するも惨敗を喫し、その後、ヌルハチが報復としてドビ・ホトンを陥落させた為、万暦25 (1595) 年、フルン (海西女真) 四部共同で謝罪し、ヌルハチと盟約を誓った。
それから幾年が経過した頃、[3]ホイファ国内では、国主・バインダリの一族兄弟から陸続とイェヘ東城主・ナリムブルに帰順する者が現れ、更にその噂を聞きつけた属部からも、イェヘに帰順を企てるものが出ていた。[4]
バインダリは属部の造反を聞き及び、阻止する為、部下七人の子を人質として送ることを交換条件に、マンジュ・グルン (満洲国) のヌルハチに対して援軍を要請した。ヌルハチは要請を受け容れて兵1,000を派遣し、イェヘへ向って行進していたホイファ属部の民衆をホイファへ逐い返した。[4]
経緯を知ったナリムブルは、マンジュに送った人質を連れ戻せば一族兄弟をホイファへ返還する、とバインダリを教唆した。ナリムブルの言葉を信じたバインダリは、ヌルハチに対し「吾滿洲マンジュ、葉赫イェヘ兩つの 國の間に生きん」[5]と一方的に中立を宣言すると、マンジュから人質を連れ戻し、計画通りその直後には中立を破って、自らの子を人質としてナリムブルの許へ送った。
ところが豈に図らんや、バインダリの人質を受け取ったナリムブルは、掌を返してホイファ一族の返還を拒んだ。バインダリはナリムブルに賺されたことを悟ると、ヌルハチの許へ部下を遣って自らの過ちを悔いるとともに、再びヌルハチの加護を賜りたいと願い出で、更に、既にゴロロ氏?チャンシュ (cangšu, 常書)[6]と婚約していたヌルハチの娘を嫁に欲しいと強請った。[7]ヌルハチはこの要望も受け容れ、チャンシュ[6]との婚約を破談にした。[8]
しかし、ヌルハチが承諾した途端、バインダリは自ら願い出た婚姻を先延ばしにし始め、話はそれきり進まなくなってしまった。怪訝に思ったヌルハチが使者を遣って問い質すと、バインダリは、人質として送った実子がイェヘに囚われている間は話を進められない、と詭弁を弄し答えた。実際は、バインダリはその裏で自らの居城・ホイファ・ホトン (現吉林省通化市輝南県東部)[9]の強化を進め、城壁を三重に増築していた。やがて、イェヘから人質が帰還し、ヌルハチは再度使者を遣って意嚮を質した。バインダリは居城の増築が完工し、守備が強化されたことでヌルハチの軍事力を見縊り始め、遂にヌルハチの娘との婚約を反故にした。
万暦35 (1607) 年旧暦9月6日、東の空に箒星が現れ、[10]ホイファ・ガシャン[11]の方向を指して流れ始めた。同月9日、怒りに燃ゆるヌルハチは出兵し、同月14日にホイファ・ホトンを包囲すると、一気に陥落させた。そしてバインダリ及びその子らをその場で殺害し、配下の兵卒も皆殺しにし、属部の民衆は降伏させて連行し、帰還した。
東方の箒星はこの日の宵に消えたが、その後、西の空にも箒星 (=1607年ハレー彗星) が現れ、一箇月余りに亘って流れ続けた。
箒星についての記述は『滿洲老檔』『滿洲實錄』『清太祖高皇帝實錄』『清史稿』などにみえる。箒星は古代社会で凶兆として恐れられ、中国では戦争や災禍など不吉なことが起る前触れとされた。[12]ホイファ国主・バインダリ、イェヘ国主・ナリムブル、マンジュ国主・ヌルハチの三者による駆け引きが続き、結果としてバインダリがヌルハチを裏切ると、ヌルハチの怒りが箒星の形を借り天空に啓示となって現れ、ヌルハチがホイファを滅亡させた時に箒星も消えた、というのがこの記事における箒星と戦役の関係性である。
1607年のハレー彗星観測について、『明史』には旧暦8月1日?-22日?の期間[13]、『朝鮮王朝實錄』には旧暦8月3日[14]-9月14日[15]の期間、『孝亮宿彌記』[16]には旧暦8月5日-20日の期間[17]として記述が遺り、清代の上記史料は一箇月ほど遅く現れている (但し『明史』の編纂は清代、『清史稿』は民国期)。従い、ヌルハチの偉業と天象の啓示を重ねる為に観測日を改竄した可能性もある。
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