大家 友和 千葉ロッテマリーンズ 二軍チーフ投手コーチ #89
横浜DeNAベイスターズ二軍投手コーチ時代 (2023年
8月11日、横須賀スタジアム)
基本情報 国籍
日本 出身地
京都府 京都市 右京区 生年月日
(1976-03-18 ) 1976年 3月18日 (48歳) 身長 体重
185 cm 91 kg 選手情報 投球・打席
右投両打 ポジション
投手 プロ入り
1993年 ドラフト3位 初出場
NPB / 1994年4月27日 MLB / 1999年7月19日 最終出場
MLB / 2009年10月4日 NPB / 2011年8月24日 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
大家 友和 (おおか ともかず、1976年 3月18日 - )は、京都府 京都市 右京区 出身の元プロ野球選手 (投手 、右投両打)、野球指導者。
メジャーリーグベースボール (以下:MLB)での登録名 は「トーモ・オーカ (Tomo Ohka)」。
経歴
プロ入り前
小学生から野球を始める。当時のポジションはキャッチャーであった。京都成章高等学校 に入学後、ピッチャーにコンバート される。3年生時に夏の京都府大会 で準優勝し、プロのスカウトの注目を浴びた。高校時代の同級生に倉義和 がいる。
1993年のドラフト で横浜ベイスターズ から3位指名を受けて入団(この年に横浜から指名を受けた6名の中で唯一の高校生であった)。背番号は56 。
横浜時代
1994年 は高卒ルーキーながら一軍入りを果たす。同年4月29日のヤクルト 戦で中継ぎとして登板し、わずか3球で初勝利を挙げる。
1997年 オフにフロリダ教育リーグに参加してMLB挑戦 を意識し始め、球団にその希望を伝える[ 1] 。
1998年 はイースタンリーグで最優秀防御率 のタイトルを獲得。オフに球団がMLB挑戦を了承したため、自由契約となった。MLB移籍に際してジム・マスターアレクシス を代理人とした。
レッドソックス時代
1998年12月にボストン・レッドソックス とマイナー契約を結ぶ。
1999年 は傘下のAA級トレントン・サンダー で開幕を迎え、8連勝を記録して6月にAAA級ポータケット・レッドソックス に昇格。フューチャーズゲーム の世界選抜に選出され、先発投手を務める。7月17日にメジャー契約を結び、19日のフロリダ・マーリンズ 戦でメジャーデビューを果たしたが、以降2連敗を喫し25日にマイナーに降格。8月23日にメジャーに再昇格し、25日に再降格したものの、9月4日に再昇格しリリーフとして起用される。10月1日のボルチモア・オリオールズ 戦で3回を無失点に抑え、MLB初勝利を挙げる。
2000年 はマイナーで開幕を迎え、6月1日のシャーロット・ナイツ 戦でインターナショナルリーグ 史上48年ぶり3人目となる完全試合 を達成。15日には2年連続でのフューチャーズゲーム選出を果たすが、17日には金善宇 との衝突で5試合の出場停止を受けた。7月21日にメジャーに昇格。28日にはマイナーに降格したが、8月6日に再昇格し3連勝を記録。その後6連敗を喫したものの、防御率3.12を記録した。
2001年 は背番号を18に変更し、開幕メジャー入りを果たした。移籍してきた野茂英雄 と共に先発ローテーション入りし2連勝。4月はリーグ4位の防御率2.28を記録。5月10日のシアトル・マリナーズ 戦ではイチロー と初対決し、最速93mph(約150km/h)を記録したが左前安打を浴びた。デビッド・コーン のDLからの復帰に伴い13日にマイナーに降格。6月7日に再昇格するが登板はなく10日に再降格し、29日に再昇格。
エクスポズ/ナショナルズ時代
2005年4月30日
2001年7月31日にウーゲット・ウービナ とのトレードでリッチ・ランドルズ と共にモントリオール・エクスポズ に移籍。伊良部秀輝 、吉井理人 とチームメイトとなる。移籍後は7連敗を喫したが、8月30日のアトランタ・ブレーブス 戦で5回2/3を2失点に抑え移籍後初勝利。最後の3試合は17回2/3で防御率2.55、WHIP1.07と安定した投球を見せた。
2002年 3月5日にエクスポズと再契約。4月28日のセントルイス・カージナルス 戦ではマット・モリス に投げ勝ち、以降4連勝を記録。前半戦を含む8勝4敗、防御率3.19、WHIP1.27の成績で折り返す。9月7日のブレーブス戦ではアンドリュー・ジョーンズ への死球が故意死球とみなされ退場処分と6試合の出場停止を受けたが、後半戦も5勝4敗、防御率3.16、WHIP1.20と安定した投球を続け、チーム最多の13勝を記録。オフには日米野球 のMLB選抜に選出された。「まっすぐにこだわった」という投球を見せたが、中村紀洋 に3点本塁打を浴びるなど3回1/3を7失点とKOされた。
2003年 7月9日のフィラデルフィア・フィリーズ 戦では7回までノーヒットノーラン の好投を続けるも、7回にプラシド・ポランコ が空振りした際にバットが内野スタンドにすっぽ抜ける。観客がバットを返さなかったため、ポランコは替えたバットで打ち、三塁手のエドワーズ・グスマン のミスを誘い初安打となった。後半戦は15試合の登板で3勝3敗、防御率3.76、WHIP1.41の投球で2年連続10勝を記録し、クオリティ・スタート はリーグ4位の22を記録した。オフには1年233万7500ドルで再契約。
2004年 3月23日に滋賀県 草津市でNPO法人 「Field of Dreams 」を発足させた。レギュラーシーズンでは4月は5度の先発で全て敗戦という幸先の悪いスタートを切ったが、5月は3勝0敗で防御率も1点台と調子を取り戻し、通算でも防御率3.01、WHIP1.35と安定した投球を続けていたが、6月10日のカンザスシティ・ロイヤルズ 戦でカルロス・ベルトラン のピッチャーライナーを腕に受けて骨折し故障者リスト 入り。9月15日のフロリダ・マーリンズ 戦で復帰した。この年は得点援護率 が2.87と低かったこともあり、15先発でわずか3勝に終わった。オフには1年275万ドルで再契約。
2005年 はチームが本拠地移転によってワシントン・ナショナルズ と名称を変更。開幕から先発で起用されたが、前年までの通算で2.31だった与四球率が5月上旬までで5.70と制球が乱れ先発を外される。6月4日のフロリダ・マーリンズ 戦では降板を要求する監督のフランク・ロビンソン に背を向けたため罰金1000ドルを科せられる。さらに、後日控え野手が枯渇していた別の試合で代走に起用され、「罰走」という形で懲罰を受けた。
ブルワーズ時代
2006年8月10日
2005年6月10日にトレードによりミルウォーキー・ブルワーズ に移籍。6月14日のタンパベイ・デビルレイズ 戦で移籍後初先発し、自身初の完封勝利を挙げる。前半戦を5勝4敗、防御率3.62、WHIP1.32で折り返し、9月5日のシンシナティ・レッズ 戦で10勝に到達。与四球率も移籍後は1.99と復調した。
2006年 2月の前半二週間、毎日放送のラジオ番組『月極ラジオ 』で、メインパーソナリティを担当。15日にNPB/MLB合わせてこの年の日本人投手最高年俸となる1年453万ドルでブルワーズと再契約。4月15日のニューヨーク・メッツ 戦では7回5安打2失点に抑え、打撃でも4回にバスター打法 で勝ち越し2点適時打を放ち勝利投手となる。25日のブレーブス戦で長谷川滋利 を抜いて日本人メジャーリーガー史上2位となる通算46勝を挙げた。2勝1敗、防御率3.18、WHIP1.356と好投を続けていたが、5月1日のヒューストン・アストロズ 戦で右肩の張りを訴え途中降板。病院にて回旋筋裂傷が判明し、故障者リスト入りする。7月18日のサンフランシスコ・ジャイアンツ 戦で復帰。8月24日のコロラド・ロッキーズ 戦では6失点を喫するも、初めて左打席に立ち自ら4打点を記録し勝利。しかし、9月15日の走塁中に左太腿を痛めシーズンを終了した。
ブルージェイズ時代
2007年 1月にトロント・ブルージェイズ と1年150万ドル+最高150万ドルの出来高で契約。4月29日に野茂英雄 に次いで日本人メジャーリーガー史上2人目となるメジャー通算50勝を達成する。しかし成績不振により、6月18日に解雇された。
カージナルス傘下時代
2007年6月19日にセントルイス・カージナルス とマイナー契約を結んだが、7月4日に解雇された。
マリナーズ傘下時代
2007年7月13日にシアトル・マリナーズ とマイナー契約を結ぶ。8月5日に放出された。
ホワイトソックス傘下時代
2008年 2月22日にシカゴ・ホワイトソックス とマイナー契約。傘下のAAA級シャーロット・ナイツ でプレーし、8試合のリリーフ登板を含む28試合の登板で5勝11敗、防御率4.18、WHIP1.33の成績に終わり、メジャー昇格はなかった。
インディアンス時代
2008年12月6日にクリーブランド・インディアンス とマイナー契約を結んだ。
2009年 5月28日に2シーズンぶりにメジャーに昇格。5月30日のニューヨーク・ヤンキース 戦に登板し、MLB通算1000投球回を達成した。結果としてこの2009年が大家のMLB在籍最終年となったが、この昇格により、大家は日本人選手では野茂に続き2人目のMLB在籍10年選手となり、引退後の選手年金を満額受給する資格を得た[ 注 1] 。オフに自由契約となる。
メキシカンリーグ時代
2010年 3月にリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル のキンタナロー・タイガース に入団したが、わずか1週間で解雇となった。
横浜復帰
横浜時代(2011年4月19日)、横浜スタジアムにて
4月7日に古巣の横浜ベイスターズ と契約に合意し、12年ぶりにNPBに復帰。背番号は44 。5月2日の東京ヤクルトスワローズ 戦(明治神宮野球場 )に先発で復帰登板し、6回1/3を投げ1失点の好投で勝利投手となった。NPBでは前述の初勝利である1994年4月29日のヤクルト戦以来16年(5847日)ぶりの勝利であり、これは遠山奬志 の10年ぶりの勝利を抜くNPB最長ブランク記録である。シーズン成績では横浜が最下位を独走する中、チーム2位の7勝を記録した。
2011年 は開幕から不調が続き、7試合に先発して6敗と1勝もあげることが出来なかった。9月27日に右肩のクリーニング手術を受けた。10月9日に球団から戦力外通告を受けた[ 3] 。12月2日に自由契約公示された。
横浜退団後
2012年 は所属先が見つからず、リハビリやトレーニングに費やす。
2013年 1月、韓国の独立野球団高陽ワンダーズ の春季キャンプに臨時インストラクターとして参加。その後4月8日、BCリーグ の富山サンダーバーズ に入団することで合意したことが発表された[ 4] 。オフにメジャーリーグのトライアウトを受験し、12月16日に古巣・ブルージェイズとマイナー契約を結んだことが発表された[ 5] 。
2014年 は古巣ブルージェイズのスプリングトレーニング に招待選手として参加するが、3月3日にマイナーに降格し[ 6] 、22日に解雇された[ 7] 。その後は独立リーグ・アトランティックリーグ のブリッジポート・ブルーフィッシュ のスプリング・トレーニングに参加。4月23日にブリッジポートと契約したことが発表される[ 8] 。5月6日のヨーク・レボリューション 戦で9回を3安打5奪三振と好投し、移籍後初完封勝利を挙げた[ 9] 。シーズン終了までブリッジポートに所属し、26試合の先発で7勝12敗、防御率5.15、WHIP1.67の成績を残す。
2015年 3月9日にBCリーグの富山に復帰したが[ 10] 、8月10日に戦力外となり、退団[ 11] 。その後、8月21日に同じBCリーグに所属する福島ホープス へ入団した[ 12] 。なお福島入団時より、登録を両打ちから右打ちへ変更している。
2016年 は福島で16試合に登板し7勝4敗、防御率2.82だった。オフの10月2日にMLBの公開トライアウトを受け[ 13] 、12月15日にボルチモア・オリオールズ とマイナー契約を結び、AAA級ノーフォーク・タイズ に配属された[ 14] 。
2017年 3月28日に解雇となった[ 15] 。その後帰国し、現役続行に向けて調整を続けていたが、契約を結ぶ球団がなかったことから6月19日に現役引退を表明した[ 16] 。
現役引退後
2017年は自身が設立したField of Dreamsの傘下であり、従前よりゼネラルマネージャー を務める社会人野球 クラブチーム ・OBC高島 のコーチに就任した[ 17] 。
同年11月より古巣である横浜DeNAベイスターズの二軍投手コーチを務め、2023年 限りで退団した[ 18] 。
2024年11月13日、千葉ロッテマリーンズのコーチに就任した[ 19] 。15日に、役職はチーフ投手コーチ、背番号は89だと発表された[ 20] 。
選手としての特徴
最速94mph (約151.2km/h [ 21] )、平均87.8mph(約141.1km/h)のフォーシーム 、ツーシーム 、平均86.1mph(約138.5km/h)のカットボール 、平均79.6mph(約128.0km/h)のスプリッター 、さらに平均82.5mph(約132.7km/h)のスライダー 、平均72.8mph(約117.1km/h)のカーブ を投げる。
2011年 終わりごろに受けた手術で球威が低下[ 22] 。ナックルボール を投球の軸、および決め球にする投球スタイルに一変し、2013年 に富山サンダーバーズ に入団するなど再起を図った[ 22] 。
2009年終了時のMLB通算打率は.138(33安打)。2004年には盗塁も記録している。
投球間隔がとても短いことで知られる。捕手がサインを出すと同時に、投球動作に入っている。
人物
MLBやマイナーを転々としてきたが、MLBでの成功・失敗について「よく成功とか失敗とか言われるが、じゃあ何が成功で、何が失敗なのか。僕はアメリカに来て野球が楽しいと思えるだけで、成功だと思うんです。僕らは見せてナンボの世界にいますから、成績を残せなければ失敗と言われるのも仕方がないと思うが、やりたいことをやるのが一番だと思います。先発でもリリーフでも、マイナーでもメジャーでも、野球をやれるだけで僕は十分、幸せなんです」と語っている[ 23] 。
エクスポズ投手時代に設立した草津シニア(「Field of Dreams」の中学生向けベースボールチーム)からは、NPBの選手として京山将弥 を輩出している。
京山が近江高校 を経てDeNAへ入団した2017年の秋季キャンプからは、大家もDeNAの二軍投手コーチに就任。就任後は、一軍の経験がなかった京山にカットボールの投げ方を教えることによって翌2018年の飛躍につなげている[ 24] 。
メジャー在籍中の2003年、「野球以外でも自分を高めたい」と立命館大学 へ入学。シーズンオフにはトレーニングを行いつつ大学へ通った。[ 25]
詳細情報
年度別投手成績
年 度
球 団
登 板
先 発
完 投
完 封
無 四 球
勝 利
敗 戦
セ 丨 ブ
ホ 丨 ル ド
勝 率
打 者
投 球 回
被 安 打
被 本 塁 打
与 四 球
敬 遠
与 死 球
奪 三 振
暴 投
ボ 丨 ク
失 点
自 責 点
防 御 率
W H I P
1994
横浜
15
2
0
0
0
1
1
0
--
.500
126
28.0
29
1
18
1
0
18
0
0
13
13
4.18
1.68
1995
3
1
0
0
0
0
0
0
--
----
44
9.1
3
0
13
0
0
6
0
0
2
2
1.93
1.71
1996
14
1
0
0
0
0
1
0
--
.000
95
18.0
27
3
14
0
1
11
3
0
19
19
9.50
2.28
1998
2
0
0
0
0
0
0
0
--
----
10
2.0
2
0
2
0
0
1
0
0
2
2
9.00
2.00
1999
BOS
8
2
0
0
0
1
2
0
0
.333
65
13.0
21
2
6
0
0
8
0
0
12
9
6.23
2.08
2000
13
12
0
0
0
3
6
0
0
.333
297
69.1
70
7
26
0
2
40
3
0
25
24
3.12
1.38
2001
12
11
0
0
0
2
5
0
0
.286
241
52.1
69
7
19
0
2
37
1
1
40
36
6.19
1.68
MON WSH
10
10
0
0
0
1
4
0
0
.200
228
54.2
65
8
10
0
1
31
1
0
30
29
4.77
1.37
'01計
22
21
0
0
0
3
9
0
0
.250
469
107.0
134
15
29
0
3
68
2
1
70
65
5.47
1.52
2002
32
31
2
0
1
13
8
0
0
.619
806
192.2
194
19
45
7
7
118
2
1
83
68
3.18
1.24
2003
34
34
2
0
1
10
12
0
0
.455
864
199.0
233
24
45
11
9
118
8
0
106
92
4.16
1.40
2004
15
15
0
0
0
3
7
0
0
.300
367
84.2
98
11
20
1
1
38
3
0
40
32
3.40
1.39
2005
10
9
0
0
0
4
3
0
0
.571
231
54.0
44
6
27
1
1
17
3
0
23
20
3.33
1.31
MIL
22
20
1
1
0
7
6
0
1
.538
543
126.1
145
16
28
4
2
81
5
0
65
61
4.35
1.37
'05計
32
29
1
1
0
11
9
0
1
.550
774
180.1
189
22
55
5
3
98
8
0
88
81
4.04
1.35
2006
18
18
0
0
0
4
5
0
0
.444
421
97.0
98
12
35
1
5
50
4
0
58
52
4.82
1.37
2007
TOR
10
10
0
0
0
2
5
0
0
.286
251
56.0
68
10
22
1
0
21
2
0
39
36
5.79
1.61
2009
CLE
18
6
0
0
0
1
5
0
0
.167
306
71.0
77
18
19
1
4
31
0
3
47
47
5.96
1.35
2010
横浜
22
22
1
0
0
7
9
0
0
.438
525
121.2
145
16
22
1
3
62
2
0
72
62
4.59
1.37
2011
7
7
0
0
0
0
6
0
0
.000
145
32.2
41
6
10
2
0
14
1
0
26
25
6.89
1.56
NPB :6年
63
33
1
0
0
8
17
0
0
.320
945
211.2
247
26
79
4
4
112
6
0
134
123
5.23
1.54
MLB :10年
202
178
5
1
2
51
68
0
1
.429
4620
1070.0
1182
140
302
27
34
590
35
2
568
506
4.26
1.39
MON(モントリオール・エクスポズ)は、2005年にWSH(ワシントン・ナショナルズ)に球団名を変更
年度別守備成績
年 度
球 団
投手(P)
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
1994
横浜
15
0
2
0
0
1.000
1995
3
1
1
0
0
1.000
1996
14
1
4
2
0
.714
1997
2
0
0
0
0
----
1999
BOS
8
0
3
0
0
1.000
2000
13
8
7
1
1
.938
2001
12
8
3
1
2
.917
MON WSH
10
4
8
0
0
1.000
'01計
22
12
11
1
2
.958
2002
32
24
30
0
2
1.000
2003
34
10
35
4
2
.918
2004
15
4
11
1
3
.938
2005
10
1
9
1
0
.909
MIL
22
7
18
0
2
1.000
'05計
32
8
27
1
2
.972
2006
18
8
12
5
1
.800
2007
TOR
10
4
3
2
0
.778
2009
CLE
18
7
9
0
1
1.000
2010
横浜
22
6
14
1
1
.952
2011
7
2
1
0
0
1.000
NPB
63
10
22
3
1
.914
MLB
202
85
148
15
14
.940
記録
NPB
初記録
投手記録
初登板:1994年4月27日、対中日ドラゴンズ 4回戦(横浜スタジアム )、2回表2死に救援登板、2回2/3を無失点
初奪三振:同上、2回表に種田仁 から
初勝利:1994年4月29日、対ヤクルトスワローズ 4回戦(横浜スタジアム)、8回表に救援登板、1/3回無失点
初先発登板:1994年7月28日、対中日ドラゴンズ19回戦(ナゴヤ球場 )、4回2/3を2失点
初先発勝利:2010年5月2日、対東京ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場 )、6回1/3を1失点
初完投勝利:2010年7月31日、対東京ヤクルトスワローズ12回戦(郡山開成山野球場 )
打撃記録
独立リーグでの投手成績
年 度
球 団
登 板
勝 利
敗 戦
セ 丨 ブ
完 投
勝 率
投 球 回
打 者
被 安 打
被 本 塁 打
奪 三 振
与 四 球
与 死 球
失 点
自 責 点
暴 投
ボ 丨 ク
失 策
防 御 率
W H I P
2013
富山
21
7
7
0
2
.500
111.0
478
108
6
25
59
5
48
46
5
1
0
3.73
1.50
2015
12
3
5
0
1
.375
46.0
233
71
2
18
27
1
44
42
2
0
0
8.22
2.13
福島
3
1
0
0
0
1.000
7.0
27
3
0
5
2
1
0
0
0
1
0
0.00
0.71
'15計
15
4
5
0
1
.444
53.0
260
74
2
23
29
2
44
42
2
1
0
7.13
1.94
2016
16
7
4
0
1
.636
79.2
331
73
4
28
26
7
38
25
2
0
1
2.82
1.25
通算:3年
52
18
16
0
4
.529
243.2
1069
255
12
76
114
14
130
113
9
2
1
4.18
1.52
背番号
56 (1994年 - 1998年)
53 (1999年 - 2000年)
18 (2001年 - 同年途中、2007年)
24 (2001年途中 - 2003年)
34 (2004年 - 2005年途中、2013年、2015年 - 同年途中)
55 (2005年途中 - 2006年)
16 (2009年)
44 (2010年途中 - 2011年、2015年途中 - 2016年)
78 (2018年 - 2023年)
89 (2025年 - )
関連情報
著書
関連書籍
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
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監督・コーチ
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