『司教法令集』(Canon Episcopi) は、ウイッチクラフト(英: witchcraft、妖術、魔女術)の歴史における重要な資料のひとつである[1]。これは906年頃にプリュムのレギーノが集成した『教会会議訴訟と教会の処理に関する書』(Libri de synodalibus cuasis et disciplinas ecclesiasticis)において初めて世に出たものであるが、レギーノはこれをもっと古いテクストと考えた。彼や後続の学者らはこれを314年のアンキラ公会議に由来するものと信じたが、その証拠となるものは現存せず、現代の学者はおそらく元は9世紀のフランク王国の法規だったのだろうと考えている[2][3]。これは後に、教会法の一切を集成する初期の試みであったヴォルムスのブルカルドゥスによる『教令集』(Decretum)(1008年から1012年に編集)に収録された。「司教が教区から魔術師や妖術師を追放するために」という副題が付されていたことから、このテクストは『司教法令集』と呼ばれるようになった[4]。1140年頃にはグラティアヌスによる権威ある『グラティアヌス教令集』(Corpus juris canonici)に収録された。グラティアヌスの選集に収められたことによってこのテクストは、ヨーロッパのウイッチクラフトに対するローマ・カトリックの見方が中世晩期において劇的に変化し始めるまでの間、数世紀にわたって権威ある法規として扱われた。
ディアーナの仲間に他の名前が加えられたことが『司教法令集』の履歴をさらに複雑なものにしている。ヴォルムスのブルカルドゥスはこのテクストを再録する際、ある箇所には『新約聖書』中の人物であるヘロディアの名を書き加え、別の箇所にはチュートン人の女神ホルダ(Holda)の名を書き加えた。その後、アウグスティヌスの所説とされた(実際にはサン=ヴィクトルのフーゴーの作であろうといわれている)12世紀の教会パンフレットは『司教法令集』を引用し、ディアーナの仲間をミネルウァと記している。その後のいくつかの公会議の文書にはベンゾジア( Benzozia)とビザジア(Bizazia)の名もみえる[8]。1280年のアリエージュ地方の教区公会議の記録にはベンソジア(Bensozia)の名が出ているが、カルロ・ギンズブルグはこれについて bona socia (良き結社)が変じた名であろうと推定している[4]。