中田 耕治(なかだ こうじ、1927年11月5日 - 2021年11月26日)は、日本の評論家、小説家、翻訳家、演出家。
東京市大森区生まれ[1]。明治大学文学部英文科卒。在学中の1946年より『近代文学』への投稿を始め、「戦後派」の最も若い批評家として注目を集める。初期評論はのちに『怪蛇(バジリスク)の眼』(1975年)にまとめられている。
1956年、「俳優座」養成所の講師として、戯曲論、アメリカ演劇研究などを講義し、やがて「青年座」などで演出にあたる[1]。
1958年、アメリカ版『MANHUNT』誌の日本語版として創刊された雑誌『マンハント』に翻訳スタッフとして参加。同誌は創刊号で「珍訳誌、超訳誌」を宣言しており、中田も原文に縛られない自在な「超訳」を披露した[注 1]。後に中田は当時を振り返って「(『マンハント』は)文体の修練の場だった。確実にぼくの一部分が培われたと思う。スタイリストの都筑道夫に負けたくなかったので、独自の文体をつくろうとした」と語っている[2]。
1961年、ハードボイルド小説『危険な女』で小説家デビュー。和製ハードボイルドの多くが社会派的要素を取り入れることに腐心していた中、アメリカ流のハードボイルド・タッチに彩られた本作は当時としては異彩を放っていた[注 2]。なお、初期ハードボイルド作品は「中田耕治ハードボイルド・シリーズ」(三一書房)全6巻に収録されている。
1962年、劇団「鷹の会」を結成。以後、14本の芝居を演出[1]。1963年、『ボルジア家の人々』で第5回近代文学賞を受賞。
1969年、澁澤龍彦編集の『血と薔薇』に評伝「ド・ブランヴィリエ侯爵夫人」を発表。作家として大きく転換し、歴史を彩った女性達の評伝を手がけるようになった。『ルクレツィア・ボルジア』(1975年)、『メディチ家の人々』(1975年)、『メディチ家の滅亡』(1983年)などが大きな山系を形作っている。フランスの演劇人を描いた『ルイ・ジュヴェとその時代』(2000年)は評伝の代表作である。
2021年11月26日、心不全のため千葉市内の病院で死去。94歳没[3]。
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