第9代デヴォンシャー公爵ヴィクター・クリスティアン・ウィリアム・キャヴェンディッシュ(英: Victor Christian William Cavendish, 9th Duke of Devonshire, KG, GCMG, GCVO, TD, KStJ, PC, JP, FRS、1868年5月31日 - 1938年5月6日)は、イギリスの貴族、政治家。
デヴォンシャー公爵家の分流の生まれだが、1908年に伯父スペンサーからデヴォンシャー公爵位を継承した。1916年から1921年にかけてカナダ総督を務めた。
経歴
1868年5月31日に第7代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ(英語版)の四男で庶民院議員のエドワード・キャヴェンディッシュ卿(英語版)とその妻エマ(庶民院議員ウィリアム・ラッセルズ(英語版)の娘)の間の長男として生まれる[1][2]。
イートン・カレッジを経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学[3]。
1891年に父が死去し、父が議席を有していた西ダービーシャー選挙区(英語版)から選出されて自由統一党の庶民院議員となる[3][1]。保守党政権下の1900年から1903年までは王室会計長官(英語版)、1903年から1905年までは財務省財務担当政務次官(英語版)を務めた[1][2]。
1908年3月に伯父第8代デヴォンシャー公爵スペンサー・キャヴェンディッシュが子供無く死去したため、第9代デヴォンシャー公爵位を継承し[2]、貴族院議員に転じた[4]。
1905年から自由党政権が続いていたが、第一次世界大戦中の1915年に保守党・自由党大連立の挙国一致内閣が成立すると海軍省民事卿(英語版)と政府貴族院院内幹事長(英語版)に就任した[1][2]。
翌1916年にはカナダ総督に就任した。彼の総督就任はカナダ首相ロバート・ボーデンに相談されずにイギリス側の独断で決定されたため、当初ボーデンとの間に深刻な亀裂が生じたが、やがてボーデンともその後任の首相アーサー・ミーヘン(英語版)とも良好な関係を保つことができた[3]。在任期間前半は依然として第一次世界大戦が続いており、カナダは兵員や物資の面で本国を支えていた。デヴォンシャー公爵着任直後に徴兵制が制定されている[3]。しかしデヴォンシャー公爵自身はカナダの政治に干渉しないよう努め、与党とも野党とも協議を持つことに慎重だった。農園奨励、芸術保護・奨励など非政治的な社会運動で主に活躍した[3]。デヴォンシャー公爵夫人も戦傷者救済など社会運動に尽力した[3]。1918年には訪米してホワイトハウスで非公式にウッドロー・ウィルソン大統領と会見している[3]。また翌1919年にはオタワで皇太子エドワードを出迎えた(皇太子のカナダ訪問は初めて)[3]。
1921年にカナダ総督を退任した後は国連で働くとともに1922年から1924年にかけてはボナー・ロー内閣と第一次ボールドウィン内閣で植民地大臣を務めた[3]。
1938年5月6日に死去した。爵位は長男エドワードが継承した[1][2]。
栄典
爵位
1908年3月24日に伯父スペンサー・キャヴェンディッシュの死去により以下の爵位を継承した[1][2]。
- 第9代デヴォンシャー公爵 (9th Duke of Devonshire)
- (1694年5月12日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
- 第9代ハーティントン侯爵 (9th Marquess of Hartington)
- (1694年5月12日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
- 第12代デヴォンシャー伯爵 (12th Earl of Devonshire)
- (1618年8月7日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
- 第4代バーリントン伯爵 (4th Earl of Burlington)
- (1831年9月10日の勅許状による連合王国貴族爵位)
- ハードウィックの第12代キャヴェンディッシュ男爵 (12th Baron Cavendish of Hardwicke)
- (1605年5月4日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
- ヨーク州におけるケイリーのケイリーの第4代キャヴェンディッシュ男爵 (4th Baron Cavendish of Keighley, of Keighley in the County of York)
- (1831年9月10日の勅許状による連合王国貴族爵位)
勲章等
家族
1892年7月30日に第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの娘イヴリン・エミリー・メアリー(英語版)(Evelyn Emily Mary Cavendish, 1870-1960)と結婚。彼女との間に以下の2男5女を儲けた[1][2]。
脚注
出典