ヴァルカン (USS Vulcan, AR-5 ) は、アメリカ海軍 の工作艦 。ヴァルカン級工作艦 のネームシップ 。艦名はローマ神話 の火 の神 であるウゥルカーヌス にちなむ。
ヴァルカンは1941年 の就役後、1991年 の退役まで約50年にわたって運用された。
艦歴
ヴァルカンはニュージャージー州 カムデン のニューヨーク造船所 で1939年 12月16日に起工、アメリカ合衆国海軍長官 ジェームズ・フォレスタル 夫人の手で1940年 12月14日に進水し、1941年 6月14日にフィラデルフィア海軍造船所 においてレオン・S・フィスク中佐の指揮の下で就役した[ 2] 。
1941年~1943年(アイスランドでの活動)
ヴァルカンはプエルトリコ のサンフアン とグアンタナモ湾 への慣熟航海の後、8月半ばにフィラデルフィア海軍造船所で慣熟航海後の修繕を行った。8月20日にヴァルカンは大西洋艦隊 に加わってフィラデルフィア を出発、メイン州 のカスコ湾 を経由してニューファンドランド のアルジェンシャ (英語版 ) へ向かった[ 2] 。
当時、大西洋艦隊は大西洋の戦い に大きく関わるようになっていた。1941年7月、アイスランド 政府の求めにより、ドイツ の地政学 者カール・ハウスホーファー が「アメリカの…ピストルのように… 」と地勢を評したこの戦略上重要な島へアメリカ軍 が進駐した。そしてレイキャヴィーク とクヴァールフィヨルズル の不毛な二港に基地を開設した。すぐに海軍のひょうきん者たちは、それぞれに「リンキー・ディンク 」(Rinky Dink = 古臭いもの)、「バレーフォージ 」(Valley Forge)と綽名を付けた[ 2] 。
ドイツ海軍 の戦艦 ビスマルク が1941年春に行ったように戦艦ティルピッツ が大西洋 へ出撃するかもしれないという懸念が強まり、そのような事態を阻止するためにアメリカ海軍は任務部隊をアイスランドへ急派した。そして、空母 ワスプ (USS Wasp, CV-7 )を基幹とする第4任務部隊(Task Force 4, TF 4 )が9月23日にアルジェンシャを出航した。部隊にはワスプの他に、戦艦ミシシッピ (USS Mississippi, BB-41 )と重巡洋艦 ウィチタ (USS Wichita, CA-45 )、そしてヴァルカンが含まれ、それらの艦を4隻の駆逐艦 が護衛していた。アイスランド南西海上を遊弋していた一隻のUボート が、26日に部隊を発見した。しかしながら、部隊に追随することも、部隊がアメリカ海軍艦だと識別することもできなかった。第4任務部隊は敵を振り切って、9月28日に「バレーフォージ」に到着した[ 2] 。
ティルピッツは出撃してこなかったものの、Uボートは連合軍 の海上輸送に痛烈な被害をもたらしていた。1941年秋までに、アメリカ海軍の駆逐艦は大西洋を横断する航路の前半部で輸送船団の作戦に従事し、MOMP (英語版 ) (大西洋上の中間地点)でイギリス軍 に任務を引き継いだ。9月4日には、中立パトロール 中の駆逐艦グリーア (英語版 ) (USS Greer, DD–145 )がUボートから攻撃を受け、寸でのところで雷撃を回避するという事態も起こった[ 2] 。
ノーフォークを出航するヴァルカン。1943年6月22日。
1941年10月17日には、SC-48船団を護衛中だった駆逐艦カーニー (英語版 ) (USS Kearny, DD-432 )がU-568 (英語版 ) に雷撃される事件が発生し、カーニーの乗員11名が死亡した。カーニーはレイキャヴィークへよろよろと入港したが、左舷側の艦橋下と後方の外板には大穴が開き醜く変形していた。乾ドック のような本格的な修理施設は存在しなかったため、ヴァルカンはカーニーに対して時宜を得た効果的な援助を提供した。カーニーはヴァルカンに接舷させられて、艦体を傾けて左舷の破孔を水線上に出すために右舷へ注水された。すぐに、ヴァルカンの修理隊は損傷した外板を切り取って穴を閉塞した。1941年のクリスマス までにカーニーは本格的な修理を行うため東海岸 へ出航することができるようになり、ボストン で入渠修理を実施したのだった[ 2] 。
厳しい気候下での作戦行動もまた自然の様々な危険をもたらし、霧や嵐がしばしば作戦を妨げ、時に衝突事故を引き起こした。1941年11月、行方不明のアイスランド商船を捜索中だった駆逐艦ニブラック (英語版 ) (USS Niblack, DD-424 )がノルウェー の商船に衝突された。だが衝突した商船によって外板に穴を穿たれたニブラックは、速やかにヴァルカンによって修理されて穴も塞がれた。修理されたニブラックは再び本来の任務である護衛活動に復帰することができた[ 2] 。
ヴァルカンはその後も1942年 春まで凍てつく不毛の地へ留まっていた。その間1941年12月7日には真珠湾攻撃 が発生し、太平洋艦隊 の戦艦群が甚大な損害を受けていた。もはやアメリカは両大洋で戦争に突入していた。ヴァルカンは1942年4月26日に補給艦 タラゼド (英語版 ) (USS Tarazed, AF-13 )、駆逐艦リヴァモア (英語版 ) (USS Livermore, DD-429 )、そして馴染み深いカーニーとともに「バレーフォージ」を出航、5月2日にボストンへ到着した。それからヴァルカンは、再び北大西洋での艦隊支援へ戻る前に乾ドックへ入渠して整備を実施した。6月16日から11月14日まではアルジェンシャで、次いでクヴァールフィヨルズルへ移り、11月18日に現地で駆逐艦母艦 メルヴィル (英語版 ) (USS Melville, AD-2 )の負担を軽減した。その後ヴァルカンはデリー を経由してハンプトン・ローズ へ出航する1943年 4月6日まで「バレーフォージ」に留まっていた[ 2] 。
1943年~1944年(地中海)
ヴァルカンは6月8日から22日までノーフォーク で修理を行った後、地中海 へ移動し6月27日にアルジェリア のオラン へ到着した。6月終わりにはアルジェ へ移ったが、ヴァルカンはそこで炎上するイギリスの弾薬輸送船アロー に対して消火・救援要員を送った。ヴァルカンの水兵3名がボートで炎上するアローへ接近すると、舷側の外板を切断して下甲板に閉じ込められたイギリスの水兵たちを助け出した。この勇敢かつ機知に富んだ行動により、3人の水兵はイギリス政府およびアメリカ海軍、アメリカ海兵隊 から勲章を授与された[ 2] 。
ヴァルカンは1944年 夏まで北アフリカ沿岸で行動し、同年8月から9月まで南フランス への上陸作戦であるドラグーン作戦 を支援する。作戦に参加する艦艇や舟艇に対する修理活動の功績により、ヴァルカンは従軍星章 (英語版 ) 1個を受章した[ 2] 。
1945年~1946年(太平洋)
1944年の終わり、太平洋 方面での緊急の需要に応えるため、ヴァルカンは1944年11月23日にGUS-59船団に加わって地中海を出航した。出航後にノーフォークで1945年 1月まで修理を行ってから、ヴァルカンは南太平洋へ向かった。1945年2月9日にガダルカナル島 へ到着し、戦争の残りの期間ツラギ 、ヌメア そしてウルシー環礁 で活躍した。ウルシー環礁では、沖縄戦 に参加する揚陸艦艇の支援に従事している[ 2] 。
日本の降伏 後、ヴァルカンは沖縄 へ移動して中城湾 へ入り、そこで9月後半まで強烈な台風 のために座礁したり大きく損傷した艦艇の修理を行った。その時再び激しい台風が泊地を襲い、ヴァルカンは17隻の商船を率いて外海へ退避した。退避行動は成功し、ヴァルカンらは一切の損失なしに9月28日に帰港した[ 2] 。
それからすぐに、ヴァルカンは占領軍を支援するために日本 本土へ向けて出航する。ヴァルカンは支援艦艇やタンカーの一団を率いて、未だ掃海 作業が完了していない瀬戸内海 へ入り10月8日に広島県 呉市 の広湾へ到着した。ここでヴァルカンは、呉を拠点に活動する占領部隊の艦艇へ食料、燃料、水を補給する前進支援部隊を組織し、他にも港に郵便局 、診療所、休養施設を開設している。加えて、ヴァルカンは日本本土近海各所にばら撒かれた機雷を処理する掃海艦艇のディーゼル機関 を整備する活動にも従事した[ 2] 。
翌1946年 になるとヴァルカンは神戸 と横須賀 でも活動し、3月9日に横須賀を出港、アメリカ本土の東海岸へ向かった。真珠湾とパナマ運河 を経由しながら、ヴァルカンは4月15日にニューヨーク のブルックリン へ到着した[ 2] 。
1946年~1991年(大西洋艦隊)
ヴァルカンは1954年 2月までロードアイランド州 ニューポート で活動した後、バージニア州 ノーフォーク へ移った。ヴァルカンはノーフォークを母港にして1970年代 半ばまで大西洋艦隊の艦艇を修理し続けた。この活動の中で多様な艦艇に修理、調整、そしてオーバーホールを行っている。ヴァルカンはカリブ海地域 からカナダ に至るまで各地の港湾を回り、グアンタナモ湾 、サンフアン 、ニューヨーク 、ボストン 、メイポート (英語版 ) 、チャールストン といった港で修理を提供した[ 2] 。
1962年 秋、アメリカの情報機関がキューバ にソ連 のミサイル基地が建設されていることを察知した。このいわゆるキューバ危機 において、カリブ海を舞台に米ソ両国がにらみ合う緊張状態が発生した。ヴァルカンは、ソ連の軍需品がこれ以上キューバへ持ち込まれないようにする海上封鎖 へ従事する艦艇に不可欠な修理を提供するためサンフアンへ向かった。ヴァルカンは電子装備や兵装の整備任務にも従事している。11月2日から26日までキューバの封鎖を支援した後、ノーフォークで通常の任務に戻った[ 2] 。
強襲揚陸艦 オキナワ (USS Okinawa, LPH-3 )と共に給油艦 ミシシネワ (英語版 ) (USS Mississinewa, AO-144 )から給油を受けるヴァルカン。1962年。
1960年代 から1970年代 の間に、ヴァルカンが東海岸とカリブ海での通常活動を離れたのは一度だけであった。1964年 秋、ヴァルカンが北大西洋条約機構 (NATO)の演習に参加するためヨーロッパへ向かった時である。同年9月8日にノーフォークを出てスコットランド へ向かったヴァルカンは9月21日にグリーノック へ到着した[ 2] 。
NATO演習「チームワーク」(Teamwork)に参加後、ヴァルカンはベルギー のアントワープ 、フランス のル・アーヴル 、そしてスペイン のウエルバ 沖で実施された水陸両用演習「スチール・パイクI作戦 (英語版 ) 」(Operation Steel Pike I)に参加する前にロタ を訪問している。ノーフォークへ帰還後はすぐに通常の任務へ戻った[ 2] 。
航海訓練と並んで、ヴァルカンはノーフォークでの工作艦としての長い任務の合間に、海軍予備士官訓練部隊 (英語版 ) (NROTC)の予備士官候補生たちに対して個艦訓練を実施している。ヴァルカンがその修理能力を発揮した例の中には、技術調査艦リバティー (USS Liberty, AGTR-5 )に対するものが挙げられる。3月24日から4月21日まで整備を受けるためヴァルカンに接舷したリバティーは海外展開へ向かったが、1967年6月8日にエル=アリーシュ 沖でイスラエル の航空機と魚雷艇 による攻撃を受けて大破してしまった(リバティー号事件 )[ 2] 。
1975年 の終わり、ヴァルカンはコロンビア海軍 で使用されている元アメリカ海軍の駆逐艦3隻へ修理を行うためにコロンビア のカルタヘナ を訪問した。ヴァルカンはそこで駆逐艦の修理だけでなく、コロンビア海軍の将兵たちに有用な訓練を提供した。1976年 の9ヶ月間にわたる大規模オーバーホールの結果、長らく主兵装であったヴァルカンの5インチ主砲4門は撤去され、代わりに20ミリ機銃4門が設置された[ 2] 。
1970年代のヴァルカンの旅程には、フォートローダーデール 、ハリファックス からチャールストンやグアンタナモ湾のようなより馴染み深い港まで各地への入港と休養が含まれた。1977年 、訓練航海からの帰投中に、ヴァルカンはポルトガル海軍 のフリゲート アルミランテ・ガゴ・コーチニョ (ポルトガル語版 ) (NRP Almirante Gago Coutinho, F473 )の援助に派遣された。ヴァルカンはアルミランテ・ガゴ・コーチニョに寄り添い、ボイラー水の緊急補給を行った[ 3] 。
それから程なくして、ヴァルカンは1978年 11月1日に病院船 以外で初めて女性士官が配置されたアメリカ海軍艦になった。最初の女性下士官たちは1978年12月と1979年 1月に到着した。女性を乗せての最初の拠点間航海は、1979年2月にニュージャージー州 アール海軍給兵基地 (英語版 ) へ向かったものであった。同年9月にはヴァルカンはノーフォークを離れて、男女合同による初の大西洋横断を行っている。「Women in Navy Ships」(WINS)プログラムの先駆者となったヴァルカンの女性乗員たちは、全乗員の7分の1を占めていた[ 3] 。
1980年 9月、ヴァルカンはNATO演習「チームワーク 80」(Teamwork 80)にアメリカ海軍、イギリス海軍、オランダ海軍 そしてドイツ海軍 の艦艇と共に参加している。ヴァルカンは1983年 2月中旬に、13ヶ月間に及ぶ大規模オーバーホールを完了した。ヴァルカンの34代目の艦長であるJ・E・マクコンヴィル艦長の指揮の下で、ヴァルカンは困難なオーバーホールと続く慣熟訓練を成功裏に完了したのであった。同年5月、ヴァルカンはキューバのグアンタナモ湾からフロリダへの航海中に、ハイチ 難民を乗せたまま航行不能となり3日間漂流していたボートローズ・カリダ (Rose Carida )を救援した[ 3] 。
1984年 の前半、ヴァルカンはセントジョンとアールを訪れた。さらにオマーン のアル=マシーラ沖で同じく第二次世界大戦時の艦であるヨセミテ (英語版 ) (USS Yosemite, AD-19 )を交代するため、ヴァルカンは10月1日にスペインのマラガを出た[ 3] 。
1991年 の湾岸戦争 では、ヴァルカンはペルシャ湾 に展開して艦艇の支援活動に従事した[ 1] 。
退役
ジェームズ川で保管されるヴァルカン(手前から3隻目)。1996年1月28日。
ヴァルカンは半世紀におよぶ現役生活の後に1991年 9月30日退役し、1992年 7月28日に海軍艦艇名簿 (英語版 ) から除籍され大西洋予備役艦隊 (英語版 ) で保管された。1999年 2月1日には、バージニア州フォート・ユースティス のジェームズ川 で国防予備船隊 の1隻として保管されるために、ヴァルカンは連邦海事局 へ移管された[ 2] 。
2006年 11月9日、バージニア州チェサピーク のBay Bridge Enterprises LLCとヴァルカンの解体に係る契約が結ばれ、ヴァルカンの艦体は2006年12月19日に解体地へ曳航された[ 2] 。
栄典
ヴァルカンは第二次世界大戦の功績で1個の従軍星章 (英語版 ) を受章したほか、以下の勲章を与えられた[ 2] 。
出典
外部リンク