マイケル・ジェフリー・ジョーンズ(Michael Geoffrey Jones 、1955年 6月26日 - )は、イギリス ・ロンドン 出身のミュージシャン 。元ザ・クラッシュ のギタリスト ミック・ジョーンズ (Mick Jones )として最も知られている。
1983年にクラッシュを解雇され、ビッグ・オーディオ・ダイナマイト をドン・レッツ 等と結成、ビッグ・オーディオ・ダイナマイトII、ビッグ・オーディオと名を変えてバンドを続けた。その後、仲間のトニー・ジェイムス とカーボン/シリコン を結成、2002年から2007年にかけて数枚のアルバムを発表した[ 1] 。
ローリング・ストーン 誌「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も過小評価されている25人のギタリスト 」に於いて第13位に選ばれたミック・ジョーンズ(フォリナー)とは別人。
初期
ロンドン自治区 のワンズワース で、ウェールズ 出身の父とロシア 系ユダヤ 人の母の間に生まれた[ 2] 。幼少の頃から母方の祖母ステラと長い間同居していた。
ストランド・スクールに入学し、「バンドに入るために」美術学校に進んだ[ 3] 。
ドールズ の前にも周りのいろんなバンドを追っかけてたよ。
モット・ザ・フープル を追っかけて国中をね。
リヴァプール 、
ニューカッスル 、他にも。タウン・ホールの入り口で寝て、汽車賃なんかごまかしてね。車掌が来たらトイレに隠れてるのさ。で、駅に着く前に列車を飛び降って、フェンスを乗り越えるんだ。楽しかったぜ。俺のやりたいことはバンドに入ってギターを弾くって事だったんだ。そして、今の俺がいる。
— ミック・ジョーンズ [ 4]
彼は1970年代前半に自ら結成したグラム・ロック・バンド、ザ・デリンクェンツでギタリストと名を上げはじめる。やがてトニー・ジェイムスと出会い、プロト・パンク・バンド、ロンドンSS を結成する。1976年に解散し、残っていたメンバーのポール・シムノン 、キース・レヴィン と次の目標を探し始める[ 5]
ザ・クラッシュ
ザ・クラッシュ時代 (1980年)
21歳の時に、彼とシムノンはシェパーズ・ブッシュ の汚いスクワットでバーニー・ローズ (自称パンク・ロックの創始者)からジョー・ストラマー を紹介される。バンドはカムデンの使われなくなった鉄道倉庫で練習し、ザ・クラッシュとなる。ジョーンズはリード・ギター とボーカル(「トレイン・イン・ヴェイン 」、「ステイ・オア・ゴー 」等数曲ではリード・ボーカル)、そしてほとんどの作曲を担当。1983年8月に、ストラマーとシムノンにバンドからの解雇を一方的に告げられる。解雇を決めたのが誰だったかについては、ストラマーはローズだったと主張している反面、シムノンは自身とストラマーだったとしている。解雇の主因は彼が時間にルーズだったことだとされるが、ドン・レッツ は音楽の知識が豊富で進取の気性に富んだジョーンズと他のメンバーとの間に摩擦が生じたことではないか、と推測している[ 6] 。
2003年に他のメンバーと一緒に、ザ・クラッシュとしてロックの殿堂入りを果たした[ 7] 。
ビッグ・オーディオ・ダイナマイト
クラッシュから追い出された後、ジョーンズはジェネラル・パブリックの創立メンバーとして短期間過ごした。バンドがデビューアルバムを出した時にはジョーンズは正式メンバーではなくなっていたが、アルバムの多くの曲でギターを弾いている。
ジェネラル・パブリックを離れ、1984年にビッグ・オーディオ・ダイナマイト を映画監督ドン・レッツ と結成。レッツはクラッシュのヴィデオや、映画『ウェストウェイ・トゥ・ザ・ワールド 』を撮影した人物である。バンドのデビュー・アルバム『ディス・イズ・ビッグ・オーディオ・ダイナマイト』は翌年発表され、収録曲「E=MC2」はダンス・クラブでヘヴィー・ローテーションされた。そしてシングルカットされた「メディシン・ショー」と「E=MC2 」の両方が全英ヒットチャートを賑わせた。
2作目のアルバム『NO.10,アッピング・ストリート』でジョーンズは再びストラマーと手を組んだ。2人は協力して「ビヨンド・ザ・ペイル」、「V.サーティーン」、「サイトシーM.C.」等、数曲を制作。ストラマーはアルバムのコ・プロデューサーもつとめた。この再会も長くは続かず、この後しばらく2人が一緒に何かをすることは無かった。
3作目のアルバム『Tighten Up, Vol. 88』ではジャケットデザインをポール・シムノン が手がけた。このアルバム発表後まもなく、ジョーンズは肺炎で数か月入院することになる[ 8] [ 9] 。回復後、ジョーンズはビッグ・オーディオ・ダイナマイトでもう一枚のアルバム『メガトップ・フェニックス』を発表し、メンバーを入れ替える前にバンド名をビッグ・オーディオ・ダイナマイトIIと改名してアルバム『ザ・グローブ』を発表する。
1991年、ジョーンズはアズテック・カメラ の「グッド・モーニング・ブリテン」にゲスト参加した。
バンドメンバーは1994年に一新され、“ビッグ・オーディオ”のバンド名でアルバム『ハイアー・パワー』を発表する。1995年にはスタジオ・アルバム『F-パンク』とベスト・アルバム『プラネット B.A.D.』を“ビッグ・オーディオ・ダイナマイト”の名で発表。1997年には『エンタリング・ア・ニュー・ライド』を録音したが、当時のレーベル、ラジオアクティヴの反対により、インターネット上のみでのリリースとなった。もう一枚のベスト・アルバム『スーパー・ヒッツ』は1999年にリリースされた。
最近の活動
カーボン/シリコン時代 - 右奥トニー・ジェイムス (2008年2月)
2002年にロンドンSS の盟友で、ジェレーションX 、ジグ・ジグ・スパトニック を経験したトニー・ジェイムス と新しいバンド、カーボン/シリコン を結成。彼等はイギリスをまわり、反ファシストのチャリティーコンサートを行った。また、オンラインで無料で入手可能の3枚のアルバム『A.T.O.M.』、『ウェスタン・フロント』、『ザ・クラックアップ・スイート』を録音した。最初の商業リリースは『ザ・ニュースEP』である。バンドは彼らの音楽をファンがP2P で共有すること、および、彼らのショーを録音、録画することを認めた。彼らの最初の曲「MPFree」はP2Pへの賛歌である[ 10] 。
ジョーンズは臨時のプロデューサーも務めた。彼はロンドンを基点とするバンド、ザ・リバティーンズ のデビュー・アルバム『リバティーンズ宣言 』をプロデュースした。このCDはイギリス、アメリカの両方で好評であった。ジョーンズはバンドのセカンド・アルバムである『リバティーンズ革命 』でもプロデュースを行った。彼はまたリバティーンズのボーカル/ギタリストのピート・ドハーティ が組んだ新しいバンド、ベイビーシャンブルズ のデビュー・アルバム『ダウン・イン・アルビオン』も制作している。
ジョーンズはアルゼンチン のロックバンドロス・ファブロソス・カディリャクス (en:Los Fabulosos Cadillacs )のアルバム『レイ・アスーカル』(en:Rey Azucar )[ 11] の最初の曲「マル・ビチョ」でギターとボーカルとしてクレジットされている。
彼は最近、『ダイス・マン』の作者ルーク・ラインハートをフィーチャーした、ニック・ミードとウェイン・マクレガー制作の映画『ダイス・ライフ』にスコアを提供した。
NMEショックウェーヴ2007で、ジョーンズはステージに上がり、プライマル・スクリーム と一緒にハマースミス宮殿の白人 を演奏した[ 12] 。
2010年には、ブラー のデーモン・アルバーン のバンドで知られるゴリラズ のアルバム『plastic beach』にゲスト参加。このアルバムには、ザ・クラッシュ のメンバーである盟友ポール・シムノン も参加していることで話題となった。また、同バンドのワールドツアーにもシムノンと共に参加している。
リチャード・アーチャー との交流
リチャード・アーチャー (en:Richard Archer ) が最初にジョーンズと出会ったのは彼がまだコンテンポにいたときである。バンドが納得できるプロデューサーを探していた時に、レコード会社の一人が彼らにジョーンズを提案した。パトニーでのリハーサルで、アーチャーは、ジョーンズの服装センスを映画『ゴッドファーザー 』になぞらえた[ 13] [ 14] 。
アーチャーはレコーディングに1年費やしたが、レコード会社の問題で、事は計画通りに運ばなかった[ 13] [ 14] 。
アーチャーについてジョーンズはこう語る:
俺は自分のキャリアでの現状を楽しめるよ。リッチのような若い連中はアイデアに満ちてるから、一緒に働くのは好きさ。俺が彼らの指導者だとは言いたくないな。2,3曲演って、楽しめりゃそれでいいじゃないか
[ 13] [ 14] 。
ハード・ファイ の2008年 2月6日 、ココ・クラブでのNMEアワードでのショーにジョーンズは現れ、ザ・クラッシュ の「ステイ・オア・ゴー 」とハード・ファイの「スターズ・オブ・CCTV」を一緒に演奏した。
2008年 3月1日 、ロンドンのショーでアーチャーがカーボン/シリコン に参加して新しいバンドを組む、という噂が流れた。彼らが2つのバンドを組み合わせて「ハード・カーボン」というプロジェクトを作ることを考えていることが明らかになっている[ 15] 。
使用機材
テレキャスター・シンラインを弾くジョーンズ (2008年カーボン/シリコン時代)
ジョーンズ最初のギターは、ジョニー・サンダース から譲り受けたギブソン・レスポール ・ジュニア。これは1977年後半までメインギターとして使用していたが、1978年初めにギグで壊された。この時からレスポール・スタンダードに持ち替え、後にレスポール・カスタムを使うようになった。
2006年のギブソンのウェブサイトで、ジョーンズは「一番好きなギターはやっぱりジュニアだな」「偉大なレスポール・スタンダード、サンバーストのやつね。それに黒のカスタム、白のカスタムも持ってたよ。それに『ロンドン・コーリング』で使ったでかいフルアコもね。でも、今でも使ってるのはジュニアなんだ」と語った。
稀にフェンダー・ストラトキャスター も使用していた(ライヴ・ヴァージョンの「ストレイト・トゥ・ヘル 」など)。そして、友人のギター職人アンドリュー・ボンドから贈られたボンド・ギターを数本所有。
カーボン/シリコン ではフェンダー・テレキャスター ・シンラインを使うことが多くなっている。
エフェクターに関しては、ジョーンズはローランドのコーラスやスペースエコーとあわせ、MXR のコンパクトエフェクター を主に使用した。フェイザー100、フランジャー、アナログ・ディレイ、ノイズゲートなどである
[ 16] 。
クラッシュ初期に使ったアンプはマーシャル のプレキシで、時折フェンダー・ツインで2x12キャビネットを鳴らすこともあった。後に彼はメサ・ブギー とマーシャルの4x12キャビネットに乗り換え、クラッシュでのキャリア最後まで使用した[ 17] [ 18] 。
出典
参考文献
パット・ギルバート (2005) [2004]. Passion Is a Fashion: The Real Story of The Clash (第4版 ed.). ロンドン: オーラム・プレス. ISBN 1845131134
マーカス・グレイ (2005) [1995]. The Clash: Return of the Last Gang in Town (改訂第5版 ed.). ロンドン: ヘルター・スケルター. ISBN 1905139101
ジョニー・グリーン; ゲイリー・バーカー (2003) [1997]. A Riot of Our Own: Night and Day with The Clash (第3版 ed.). London: オリオン. ISBN 0752858432
ボブ・グルーエン; クリス・セールウィクズ (2004) [2001]. ザ・クラッシュ (第3版 ed.). ロンドン: オムニバス. ISBN 1903399343
クリス・ニーズ (2005-01-25). Joe Strummer and the Legend of the Clash . ロンドン: プレクサス. ISBN 085965348X
キース・トッピング (2004) [2003]. The Complete Clash (第2版 ed.). リッチモンド: レイノルズ&ハーン. ISBN 1903111706
外部リンク