マダガスカル・クーデター

マダガスカル・クーデター

2009年1月24日アンタナナリヴ抗議
戦争
年月日2009年1月初頭 - 2009年3月
場所マダガスカルの旗 マダガスカル
結果:大統領マーク・ラヴァルマナナの辞任。マダガスカル軍への権限譲渡。暫定大統領に野党指導者アンドリー・ラジョエリナが就任。
交戦勢力
反大統領派 大統領支持派
指導者・指揮官
アンドリー・ラジョエリナ
マダガスカル軍
マーク・ラヴァルマナナ
戦力
- -
損害
100人以上[1]。130人[2]・135人[3]とも。 -
アンドリー・ラジョエリナ
マルク・ラヴァルマナナ
2月27日撮影 破壊された建物
1月26日撮影 逃げ惑う人々

マダガスカル・クーデターは、マダガスカルで勃発した2009年1月から3月にかけての政治危機である。「クーデター」と言う名称については、各国の対応が異なり、一般にクーデターと断定されているわけではない[4]

背景

2001年に実施された大統領選挙において、再選を目指すディディエ・ラツィラカと野党TIM党首のマーク・ラヴァルマナナによる事実上の一騎討ちとなった。憲法高等裁判所はラヴァルマナナが最多得票者であるが、過半数を達しなかったので決選投票の実施を発表した。しかしラヴァルマナナら野党勢力は独自集計で過半数の得票を獲得したとして「勝利」を宣言した。ラヴァルマナナへの支持は全国に拡大し翌2002年、ラツィラカはフランスへ出国しラヴァルマナナは大統領に就任した。後にラツィラカは任期中の不正を告発され、最高裁判所から訴追を受けた。

2007年に実施された首都・アンタナナリヴ市長選に当選したアンドリー・ラジョエリナはラヴァルマナナ率いる政府批判を繰り返し、政府との関係は悪化した。

2008年11月、政府は韓国大宇グループにマダガスカルの全農地の過半となる130万haを99年間無償で貸与する協定(2009年6月に暫定政府が破棄)を締結[5]。ラジョエリナは自身が運営するテレビ局にフランスに滞在するラツィラカを出演させ、政府批判のインタビューを放映した。12月13日、政府はラジョエリナのテレビ局に対して、国外追放したラツィラカを出演させたことを理由に閉鎖命令を出した。

概要

デモ

2009年1月24日、ラヴァルマナナが南アフリカ共和国に首脳会談の為渡航した。翌25日、ラジョエリナは政府によるテレビ局閉鎖を批判し、抗議デモを呼びかけた。デモ参加者の一部が暴徒化し、公共放送など政府施設や商業施設を襲撃、治安部隊が出動し暴徒を鎮圧、44人の死者が出た。アフリカ連合はラジョエリナの抗議デモを非合法的手段として非難声明を公表した。

2月2日、ラヴァルマナナはラジョエリナを国家反逆罪として最高裁判所に告発、最高裁はラジョエリナのアンタナナリヴ市長職を免職した。

反対集会

2月7日、ラジョエリナ率いる野党勢力はアンタナナリヴで反対集会を開き、首相にモンジャ・ロインデフォを指名した。デモ隊は暫定政権の施設として使用するため大統領府の占拠に向かうが、治安部隊が発砲し28人が死亡・212人が負傷した[6]

初の女性国防大臣のセシル・マヌルハンタが、この発砲事件に抗議し辞任。

2月21日、ラヴァルマナナはラジョエリナと会談、和解する事で合意した。しかしラジョエリナ側が和解を拒否し、抗議デモを再開した。フィアナランツァ州2月26日27日に行ったデモでは、政府軍との衝突で2人が死亡した。

大統領辞任

3月14日にラジョエリナは集会を開き、ラヴァルマナナ大統領の辞任を要求した。3月15日、ラヴァルマナナは事態の収拾を計るため、大統領職を国民投票で決定すると発表したが野党勢力は即時辞任を要求して無視した。翌16日、軍部にもラヴァルマナナ不支持が拡大し、陸軍部隊が大統領府を占拠した[7]

この事態を受けてラヴァルマナナは大統領辞任を表明、全権を軍に委任した[8]。軍部は全権をすぐに、ラジョエリナに移譲。ラジョエリナが暫定大統領に就任、首相モンジャ・ロインデフォが就任した。

現行憲法に規定された大統領の被選挙権は40歳以上であり、ラジョエリナは34歳で年齢規定に達していなかったが3月18日、憲法高等裁判所はラジョエリナの大統領就任を容認した。3月21日大統領就任式を強行し、「世界と友好を築き、自由な未来を求める」と演説を行った[9]。また、2年以内に大統領選挙と議会の解散、総選挙を行うとしている。

ラヴァルマナナの亡命

アンドリー・ラジョエリナが大統領に就任後、イアヴルハの大統領執務室に居たマーク・ラヴァルマナナ前大統領は、マダガスカルから南下したスワジランド王国に身元を寄せている事が2008年3月25日に判明した[10]。ラヴァルマナナ前大統領は、ラジョエリナから逮捕命令が発令された結果、国外逃亡を強いられ、3月23日にマダガスカルから亡命し、スワジランド国王であるムスワティ3世と今後のマダガスカルへの対応を協議したと報道される。また、3月23日に行われたラジョエリナ抗議運動の際、抗議を行った民衆へ直接電話を掛けるなど大統領の座を取り戻そうとする動きを展開している。

ラジョエリナへの抗議

アンドリー・ラジョエリナが大統領へ就任した直後の3月23日26日に首都アンタナナリボで、マーク・ラヴァルマナナ支持者達で抗議デモが行われた[11][12]。この抗議デモで、3000人がアンタナナリボ周辺を大行進した。今回の政治危機で野党となったTIMのラハリナイブ報道官は、「軍によって生まれた政権は受け入れられず、和解による合意を求める」と言及に及んでいる。

その後

暫定政府は国際社会から承認を得られず、外交的に孤立した。2010年8月、前年2月の反対集会に対する発砲事件に関与したとして、前大統領マーク・ラヴァルマナナに殺人共謀罪で本人不在のまま終身強制労働刑が言い渡された[13]。ラヴァルマナナは2011年2月に南アフリカからマダガスカルへ帰国しようとしたが、マダガスカル政府当局の妨害から飛行機に搭乗できず断念している[14]。 一方、アンドリー・ラジョエリナを次回の大統領選挙まで暫定大統領とするための憲法改正を問う国民投票が2010年11月に行われ、賛成多数で承認されたが、野党によるボイコットなどで、投票率は約53%と低調であった[15]。またこの際、軍の一部が反乱を起こし鎮圧される[16]など、不安定な政情が続いた。

こうしたなか、選挙による政治的危機の終結に向けたロードマップが2011年9月、関係者の合意を得た。選挙日程は2013年はじめに発表されたが、大統領選挙の一部の立候補者の違法性をめぐって事態は紛糾し、選挙は延期された。これにはアフリカ連合 (AU) や南部アフリカ開発共同体 (SADC) などの国際機構が仲介にあたった。8月に入ると事態は進展をみせ、最終選挙日程が確定した。2013年10月25日に実施された大統領選の第一回投票では、ラヴァルマナナ政権で保健相を務めたジャン・ルイ・ロビンソン候補と、ラジョエリナ政権で財政・予算相を務めたヘリー・ラジャオナリマンピアニナ候補が上位二名による決選投票に進んだ。決選投票は12月20日に行われ、この結果、ラジャオナリマンピアニナが53.49%の僅差でロビンソンを下し、大統領に当選[17]、2014年1月25日に就任した[18]

各国・各機関の反応

日本政府外務省は、3月19日に「一般市民を巻き添えにし、不法に政権交代が行われた事に強い懸念を抱き、民主主義的方法で武力手段に到らず問題を解決し、一般市民の安全を祈る」と発表した[19]。また、同日にはマダガスカル島全域にラジョエリナ政権の安定情勢が取れるまで「渡航の是非を勧める」と渡航危険情報を発令した[20]
野党指導者アンドリー・ラジョエリナの政権は受け入れられないと非難している。
ニコラ・サルコジフランス大統領は、「混乱を終わらせるのは早期の選挙だ」と述べ、大統領選挙を出来るだけ早く行う様、要求している[9]
アフリカ大陸での政治的な問題解決を期待し、武力の行使を断念して支援を実行すると肯定している。
アメリカ合衆国国務省ウッド副報道官は、2009年2月20日にラジョエリナ政権発足を受け、暴力的解決を懸念し、マダガスカルへの金銭援助を取り止めると声明を発表している[21]。また、駐マダガスカル大使アンドリー・ラジョエリナの大統領就任式に出席を拒否した[9]
事態の沈黙を期待すると声明を発表した。
アメリカと同様に、即座に金銭援助を取り止めると発表した[11]
アンドリー・ラジョエリナの大統領就任は憲法上問題ないが、決して民主主義的方法ではないと懸念している。
クーデターであるとしてマダガスカルの加盟資格停止を決定。また、半年以内に選挙を実施しなければ、制裁を科すことも検討するとしている[22]3月23日にはウエドラオゴ事務総長がハシニ外務大臣の元を訪れ、「今回の事件の和解を進め、総選挙を迅速に行ってほしい」と述べた[23]
国際連合事務総長潘基文は、アメリカニューヨークで開かれた2009年3月12日の会見で、「マダガスカル情勢を懸念し、問題解決のため双方の対話を期待する」と言及した[24][25]

脚注

  1. ^ マダガスカル軍が大統領府を占拠 野党指導者への支持表明 NIKKEI NET 2009年2月23日閲覧
  2. ^ マダガスカル:大統領辞任…軍に権限委譲、政治混乱収束へ 毎日jp 2009年2月23日閲覧
  3. ^ マダガスカル大統領が退陣 野党支持の軍に権限移譲 47NEWS 2009年3月25日閲覧
  4. ^ しかし、「クーデターの…」と言った報道はあり、マーク・ラヴァルマナナの辞任に到った一連の騒動については、クーデターは成立したとみられる。旧宗主国フランスニコラ・サルコジ大統領は一連の事件を「クーデター」と呼んだと報道されている
    Madagascar faces diplomatic isolation after 'coup' AFP, March 20, 2009. 2009年3月27日閲覧
  5. ^ 始まった農地の争奪—中国や産油国が獲得に走る“食料権益””. 日経BP. 2011年3月6日閲覧。
  6. ^ 反政府デモ隊に発砲、28人死亡=マダガスカル 時事ドットコム 2009年3月23日閲覧
  7. ^ マダガスカル:野党支持者騒乱が拡大 大統領府に装甲車 毎日jp 2009年3月23日閲覧
  8. ^ マダガスカル大統領が辞任=野党「2年以内に選挙」 時事ドットコム 2009年3月23日閲覧
  9. ^ a b c “マダガスカル:ラジョエリナ氏、暫定大統領就任式 国際社会認知せず”. 毎日新聞. (2009年3月22日). オリジナルの2009年3月29日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2009-0329-0207-51/mainichi.jp/select/world/news/20090323ddm007030116000c.html 
  10. ^ マダガスカル前大統領、復帰に意欲 支持者に電話 朝日新聞 2009年3月27日閲覧
  11. ^ a b 新暫定大統領に対する抗議デモ―マダガスカル 世界日報社 2009年3月25日閲覧
  12. ^ マダガスカル、政変後も混乱続く 前大統領支持派が巻き返し 産経新聞 2009年3月30日閲覧
  13. ^ “前大統領に終身労働刑 マダガスカル”. 産経新聞. (2010年8月29日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/110125/mds1101250619013-n1.htm 2011年3月6日閲覧。 
  14. ^ “前大統領、帰国できず マダガスカル、当局が妨害”. 産経新聞. (2010年2月20日). https://web.archive.org/web/20110222054718/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110220/mds11022010010009-n1.htm 2011年3月6日閲覧。 
  15. ^ “憲法改正、賛成多数で承認 マダガスカル”. 産経新聞. (2010年11月23日). https://web.archive.org/web/20110205200007/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110117/mds1101172249022-n1.htm 2011年3月6日閲覧。 
  16. ^ “軍、兵舎に突入し反乱兵士を拘束 マダガスカル”. 47NEWS. 共同通信. (2010年11月21日). https://web.archive.org/web/20130515145656/http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010112101000094.html 2011年3月6日閲覧。 
  17. ^ マダガスカル大統領選挙について(外務報道官談話) 外務省 2014年2月11日閲覧
  18. ^ 石原外務大臣政務官のマダガスカル訪問(概要) 外務省 2014年2月11日閲覧
  19. ^ マダガスカル情勢について 外務省 2009年3月28日閲覧
  20. ^ マダガスカル:ラヴァルマナナ大統領退陣に関する注意喚起とマダガスカルに対する渡航情報(危険情報)の発出(2009/03/04) 外務省 2009年3月28日閲覧
  21. ^ 米政府、マダガスカルへの経済支援停止 NIKKEI NET 2009年2月23日閲覧
  22. ^ “マダガスカル:政権移譲、AUは「クーデター」 加盟資格を停止”. 毎日新聞. (2009年3月22日). オリジナルの2009年3月29日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2009-0329-0207-31/mainichi.jp/select/world/archive/news/2009/03/21/20090321dde007030022000c.html 
  23. ^ AU事務総長特使、マダガスカル暫定政府の外務相と会談 中国国際放送局 2009年3月25日閲覧
  24. ^ パンギムン国連事務総長、マダガスカルで双方の対話を呼びかけ 中国国際放送局 2009年3月23日閲覧
  25. ^ Ban urges Madagascar parties to act responsibly after President resigns 国連ニュース 2009年3月23日閲覧

関連項目