石炭船バイウェル・キャッスルは、1870年にニューキャッスルで建造され、メサーズ・オヴ・ニューキャッスル (Messrs Hall of Newcastle) によって所有された。総登録トン数は1376トンで、長さは254.2 ft (77.5 m)、32 ft (9.8 m)であった。船倉の深さは19 ft (5.8 m)であった[6][10][11]。船長はトマス・ハリソン (Thomas Harrison) であった[12]。
ミルウォールを出航するや、バイウェル・キャッスルは5ノットで川を下って進んだ。船は、他の船舶が邪魔になる場所を除いて、だいたいは川の真ん中を進んだ。ガリオンズ・リーチに近づくと、ディックスは、プリンセス・アリスの赤いポート・ライト (port light) がそれらの右舷を通過する進路を近づいているのを見た[20]。グリンステッドは、潮に逆らって川を上って行き、川の南側でゆるやかな水域 (slack water) を探すという、通常の船頭の慣習に従った[21][注釈 2]。彼は船の進路を変え、船をバイウェル・キャッスルの進路に連れて行った。差し迫った衝突を見て、グリンステッドは、より大きい船に向かって「おまえどこにくるんだ! これは驚いた! おまえどこにくるんだ!」 (Where are you coming to! Good God! Where are you coming to!)[23][24][注釈 3]と叫んだ。ディックスは、船を操縦して衝突進路からはずそうとし、エンジンを「全速後進」 (reverse full speed) に入れるように命じたが、遅すぎた。プリンセス・アリスは、右舷側の外車輪覆いのすぐ前に13度の角度で打撃を受けた。2分割され、4分間もかからずに沈んだ。複数のボイラーは沈みながら構造から離れた[26]。
バイウェル・キャッスルの乗組員は、プリンセス・アリスの乗客が登るように甲板から複数のロープを垂らした。彼らはまた、人々が掴まるために水に浮かぶものなら何でも投げた[27]。バイウェル・キャッスルの乗組員はまた、救命ボートを進水させ、14人を救助し、そして近くに係留されたボートの乗組員も同じことをした。テムズ川両岸の住民、特に地元の工場のボートマンらは、船を進水させて救える人を救った[28][29]。プリンセス・アリスの乗客の多くは泳げなかった。女性たちが着ていた長く重いドレスもまた、浮いていようとする努力を妨げた[30]。プリンセス・アリスの姉妹船デューク・オブ・テック (Duke of Teck) は、プリンセス・アリスの後方10分間のところで蒸気力で動いていた。デューク・オブ・テックの到着は、水中に残された人を救うには遅すぎた[31]。甲板の下またはサルーンにいた2人だけが、衝突後も生存していた[32]。後にサルーンを調べたある潜水夫は、乗客らが出入り口で、ほとんどはまだ直立して、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていた、と報告した[33]。
審問の間、バイウェル・キャッスルの機関助手ジョージ・パーセル (George Purcell) から証言が取られた。沈没の夜に、彼は何人かの人々に、船の船長と乗組員は酔っている、と語っていた。宣誓の下で彼は主張を変え、彼らは素面だ、自分は誰かが酔っていると主張した記憶はない、と述べた。バイウェル・キャッスルの他の乗組員から得られた証言によると、酔っていたのはパーセルだったことがわかった。ある乗組員は「パーセルは大多数の機関助手のようだった。彼は酒を飲んでひどくなっていたが、当直を務められないほど悪くはなかった」 (Purcell was like the generality of firemen.He was rather the worse for drink, but not so bad that he could not take his watch.)[64]と言った。また、船が沈んだ時点でのテムズ川の、そしてプリンセス・アリスの建造および安定性の証言が得られた[65]。11月14日、12時間の討議ののちに審問は評決を下した。陪審員19人のうち4人が、声明に署名することを拒否した[66]。評決は以下の通りである。
前述のウィリアム・ビーチー (William Beachey) その他の死亡が、衝突からテムズ川の水域に溺れたことによって引き起こされ、その衝突はバイウェル・キャッスルと呼ばれる蒸気船とプリンセス・アリスと呼ばれる蒸気船との間で日没後に起こり、それによってプリンセス・アリスは2分され、沈没したこと。バイウェル・キャッスルがエンジンを適時に、慎重に動かし、停止させ、逆に動かすという必要な予防措置を講じなかったことと、プリンセス・アリスが停止し後進することをしないことによって衝突の一因となったこと。もしテムズ川のすべての蒸気航行に対して適切かつ厳格な規則と規制(rules and regulations)が定められているならば、陪審の意見におけるすべての衝突は、将来的に、回避されるかもしれないということ。
追加事項:
われわれは、プリンセス・アリスが、9月3日に、耐航性があった、と考えている。
われわれは、プリンセス・アリスには適切かつ十分に人員を配置されていなかった、と考えている。
われわれは、プリンセス・アリスに乗っている人の数が慎重以上 (more than prudent) であった、と考えている。
検死審問と同時に行なわれたのは、商務委員会の調査であった。責任は、ハリソン船長、バイウェル・キャッスルの乗組員2人、そしてプリンセス・アリスの一等航海士ロング (Long) にあるとされた。聴聞の開始時に、全員が免許を一時停止されていた[注釈 6]。商務委員会の手続きは1878年10月14日から始まり、11月6日まで続いた。委員会は、プリンセス・アリスが商務委員会規則の規則29のd節 (Rule 29, Section (d) of the Board of Trade Regulations)と1872年のテムズ川保護委員会の規則(Regulations of the Thames Conservancy Board, 1872) に違反したことを明らかにした。これは、もし2隻の船が互いに相手の方に向かっているならば、彼らは互いの左舷側を通過するべきである、と述べた[注釈 7]。プリンセス・アリスはこれに従わなかったため、委員会はプリンセス・アリスが責めを負うべきであること、バイウェル・キャッスルが衝突を回避しえなかったと判断した[注釈 8][71]。
乗客名簿、あるいは乗船した人々の人数の記録は、プリンセス・アリスに保存されていなかったので、死亡した人々の人数を計算することは不可能であった。数字は600から700までさまざまである[75][注釈 10]。『タイムズ』によれば、「検死官は川から回収されていない60ないし80の遺体があると信じている。したがって失われた生命の総数は630ないし650であったにちがいない」 (the coroner believes that there are from 60 to 80 bodies unrecovered from the river.The total number of lives lost must thus have been from 630 to 650)[76]とされる。マイケル・フォーリー (Michael Foley) は、テムズ川での災害の調査で次のように述べている「最終的な死亡者数の証拠はなかった。しかし、最終的には約640が回収された」 (there was no proof of the final death toll. However, around 640 bodies were eventually recovered)[48]。この沈没は、イギリスで最悪の内水での災害 (the worst inland disaster on water in the UK) であった[17]。
プリンセス・アリスの所有者ロンドン・スティームボート社は、この船の残骸をテムズ川管理委員会 (Thames Conservancy) から350ポンドで購入した[注釈 13]。複数のエンジンは回収され、残りはある船舶解体業者に送られた[83]。ロンドン・スティームボート社は、6年もしないうちに破産し、後継者らはその3年後に財政難に直面した。歴史家ジェリー・ホワイト (Jerry White) によれば、鉄道やバス・サービスとの競争とあいまって、プリンセス・アリスの沈没事故が「潮汐のあるテムズ川を喜びの場としてはだめにすることで ... 何らかの衝撃を及ぼした」 (had some impact ... in blighting the tidal Thames as a pleasure-ground)[85]バイウェル・キャッスルは1883年1月29日に、アレクサンドリアとハル (Hull) の間を航行していて失踪したと報告された。その時には綿実と豆の貨物を運んでいた。1883年2月、複数の新聞が最終報告を伝えた。
数年前ウーリッジ沖でサルーン・ボート、プリンセス・アリスに衝突した汽船バイウェル・キャッスルは、ビスケー湾で、ケンミュア・キャッスル (Kenmure Castle) にとって致命的であるとわかった強風のなか沈んだ、と考えられている。バイウェル・キャッスルは乗組員40人と、エジプトの産物からなる貨物を運んだ。『ザ・マンチェスター・ガーディアン』 (The Manchester Guardian) 1883年2月13日
^通常の慣習は船員らに受け入れられた。規則を明確にした、韻文に助けられて記憶するパンフレットが、1867年に商務省海事局のトマス・グレイ (Thomas Gray) によって『道の規則』 (Rule of the Road) として出版された[22]。
^一部の出典では叫び声を「おいおい! おまえどこにくるんだ?」 (Hoy hoy! Where are you coming to!) とする[25]。
^その日に埋葬された正確な人数は、さまざまである。ジョーン・ロック (Joan Lock) は、2013年に沈没事故の経過を発表し、それは74人であると述べている(午前に13人、午後に61人)[57]。『ザ・デイリー・ニューズ』 (The Daily News) は84人(女45人、男21人、女の子12人、男の子6人)と報じた[58]。『ザ・デイリー・テレグラフ』 (The Daily Telegraph) は83人(女47人、男18人、子供18人)とし[56]、『ザ・スコッツマン』 (The Scotsman) は92人とした[59]。
^商務委員会規則の規則29のd節 (Rule 29, Section (d) of the Board of Trade Regulations) と1872年のテムズ川保護委員会の規則 (Regulations of the Thames Conservancy Board, 1872) には、「蒸気力による2隻の船が、衝突のリスクを伴うように、端を接して、またはほとんど端を接している場合は、両者の舵を取舵にしてそれぞれが相手の左舷側を通過するようにする」(If two vessels under steam are meeting end on, or nearly end on, so as to involve risk of collision, the helms of both shall be put to port so that each may pass on the port side of the other)とある[70]。
^『ザ・マンチェスター・ガーディアン』(The Manchester Guardian) 1878年11月10日
Stark, Malcolm (1878). The Wreck of the Princess Alice, or, The Appalling Thames Disaster, with Loss of About 700 Lives. London: Haughton & Co. OCLC138281081(英語)
Thurston, Gavin (1965). The Great Thames Disaster. London: George Allen & Unwin. OCLC806176936(英語)