フリードリヒ3世 (Friedrich III., 1415年 9月21日 - 1493年 8月19日 [ 1] )はハプスブルク家 5人目のローマ王 (在位:1440年 - 1493年 )[ 注釈 1] 、そして同家初の神聖ローマ皇帝 (戴冠:1452年 3月19日 )[ 注釈 2] 。元はオーストリア公 フリードリヒ5世 で、のちオーストリア大公 [ 2] 。ローマ王 としてはフリードリヒ4世 。オーストリア公エルンスト (鉄公)とツィンバルカ・マゾヴィエツカ の間に、インスブルック で生まれた。又従兄のローマ王アルブレヒト2世 の急死後に王位につき、長命を保って50年以上在位したことで結果的にハプスブルク家の帝位世襲に成功する。
生涯
最初はケルンテン などわずか3州の貧しい領主であり、決断力に欠けて臆病で気が弱く、常に借金で追われていた[ 3] 。フス戦争 で混乱に陥ったボヘミア をオスマン帝国 から防衛する任をオーストリア大公 に託すという理由[ 4] のほか、御しやすい人物というのが、選帝侯 から皇帝に選ばれた理由であった[ 3] [ 4] 。数多くの蔑称を身に纏い、死後は「神聖ローマ帝国の大愚図」という綽名を贈られた[ 5] [ 6] 。まともにぶつかれば歯の立たない強敵が大勢立ちはだかったが、辛抱強く敵が去るのを待ち[ 3] 、選帝侯の予想に反して53年もの間帝位を占有し続け、ハプスブルク家の帝位世襲を成し遂げた[ 3] 。
凡庸な君主であり、ハンガリーやボヘミアをハプスブルク家の支配から失い、オスマン帝国の攻勢には対抗出来ず、ハンガリーには多くの領地を併合され、ウィーンから追放されるなど散々な目に遭っている。しかし長命を保ったことと悪運の強さから敵対者はことごとく都合良く死亡し、暗殺説がつきまとうほどである。
そのような失敗続きの治世における「唯一の成功」がブルゴーニュ公シャルル の一人娘を息子マクシミリアン の妃に迎えたことであり、その結果ハプスブルク家はブルゴーニュ東部とその属領ネーデルランド を併合し、将来の発展の礎を築くことになった[ 7] 。
フリードリヒ3世の好きな言葉は“A・E・I・O・U ”で、あらゆる物にこれを彫り込んでいた[ 4] 。これは“Alles Erdreich ist Österreich untertan”(オーストリアは全世界の支配者なり)の略と言われる[ 8] 。ただし、異説もある。
内オーストリア公
フリードリヒ3世はローマ王 ・アルブレヒト1世 の玄孫であったが、元来ハプスブルク家でも傍系のレオポルト 系の生まれであった。1424年に父エルンスト鉄公 が死去したため、幼くして弟アルブレヒト6世 を共同統治者として内オーストリアの所領を相続した(オーストリア公としてはフリードリヒ5世)。
宗家継承
皇帝ジギスムント の死によってルクセンブルク家 が断絶した後、次のローマ王に選出されたのはジギスムントの娘婿アルブレヒト2世 だった。アルブレヒト2世はハプスブルク家の宗家(アルブレヒト 系)の当主で、フリードリヒの又従兄に当たった。アルブレヒトはこの時、ジギスムントの有していたハンガリー とボヘミア の王位も獲得している。しかし1439年 、在位1年余りで皇帝としての戴冠式も果たせないまま、アルブレヒト2世は対オスマン帝国 戦に出陣中、ハンガリーのネスメーイ (英語版 ) で赤痢 によって急死した。
アルブレヒト2世の男子は、父親の死の翌年に生まれたラディスラウス・ポストゥムス しかいなかった。フリードリヒはラディスラウスの後見人に選ばれる一方、自身がローマ王に選出された。オスマン帝国の勢力がなおも迫っており、フリードリヒにはアルブレヒトに代わってオスマン帝国への防波堤となることが期待されていた。しかしこの時点でフリードリヒは、内オーストリアにおいては弟アルブレヒト6世 を共同統治者としており、またハプスブルク家領全体で見ればアルブレヒト2世の遺領はラディスラウスに属し、チロル は従弟ジークムント が有するといった具合で、十分な資力が伴っていなかった。
1457年 にはラディスラウスが17歳で夭折し、ボヘミアとハンガリーの王位は一旦ハプスブルク家から離れるが、オーストリアの遺領はフリードリヒ3世のものとなった。
皇帝即位と結婚
ポルトガル王女エレオノーレとの対面(ピントゥリッキオ 画)
1452年 、フリードリヒ3世は正式に戴冠すると同時に、ポルトガル王 ドゥアルテ1世 の娘エレオノーレ(レオノール) と結婚するため、一族のアルブレヒト6世やラディスラウスらを伴ってローマ に向かった。エレオノーレとはシエーナ で落ち合い、ローマで戴冠式と結婚式を同時に執り行った。ブルクハルト はフリードリヒ3世のイタリア訪問について「皇帝からいろいろの権利の書付けを書いてもらいたい人間や、皇帝ともいわれる人をはでに接待していい気持になる人間」による費用負担で行った「休暇か保養の旅行の性質をおびている」と手厳しい[ 9] 。
また、占星術 に深くはまり、イタリアで授けられた子供は悪魔の申し子であると信じて妻に手を触れなかったともいうが、1459年 3月22日 待望の男子(後のマクシミリアン1世 )が生まれた。
なお、マクシミリアン1世以後はローマへ行かないままでも皇帝を称するようになり、ローマで戴冠した皇帝はフリードリヒ3世が最後となった。
ウィーン追放と帰還
1453年 5月29日 、メフメト2世 率いるオスマン帝国 軍によってコンスタンティノープルは陥落 し、東ローマ帝国 は滅んだ。このニュースはヨーロッパを駆け巡り、人々を震撼させたが、フリードリヒ3世は関心を示さなかった[ 4] 。
弟アルブレヒト6世 大公は、凡庸な兄を前にして野心を燃やし、1463年 にウィーン の不穏分子を煽り暴動を起こさせ、エレノオーレとマクシミリアンを幽閉した。皇帝は10日後にウィーンに駆けつけたが、城内に入れないまま追い払われた。屈辱的な内容の講和をアルプレヒトと取り交わした後、フリードリヒはようやくウィーンへの入城を果たしたが、苛政を敷くアルプレヒトが暗殺されたことにより、ウィーン市民と和解した。
存亡の機にあるハンガリー貴族はフリードリヒ3世を見限り、オスマン帝国から恐れられていたフニャディ・ヤーノシュ を実質的な王に選出していたが、ヤーノシュの子マーチャーシュ は1458年 、正式にハンガリー王に選出されると、ワラキア 、セルビア など次々に領土を拡張し、1479年 にはオロモウツの和約 によってオーストリア大公 の地位さえ奪った。1483年 にはオーストリア の半分を支配し、1485年 以降ウィーンも占領され、フリードリヒ3世はリンツ へ宮廷を移した。フリードリヒ3世は娘クニグンデをオスマン帝国のスルタン に差し出してこの危機を切り抜けよう、などと考えていたという[ 4] 。しかしマーチャーシュは1490年 に子を残さぬまま死亡し、フリードリヒ3世は三たびウィーンに戻ってオーストリアの支配権を奪還することができた[ 4] 。同じ1490年には従弟のジークムント 大公が領主権をマクシミリアンに譲渡し、ハプスブルク家の領地はフリードリヒ・マクシミリアン親子の下に統合された。
婚姻政策
フリードリヒ3世は治世の最後に、当時栄えたブルゴーニュ公国 を手に入れる。当時のブルゴーニュ公 は皇后エレオノーレの従兄であるシャルル豪胆公(突進公) で、相続人は一人娘マリー しかいなかった。このためヨーロッパ中の王侯が、ブルゴーニュ公国を相続するマリーとの婚姻を望んだ。特に対立関係にあったフランス王 ルイ11世 は、王太子シャルル(後のシャルル8世 )との結婚を執拗に望んでいた。しかしブルゴーニュ公は、皇帝フリードリヒ3世の子マクシミリアン大公との結婚に興味を示していた。
1473年 9月13日 に両者はトリーア で会見し、豪胆公はブルゴーニュの支配者としての自分へのローマ王位の授与などを要求したが、ローマ王の選定権は選帝侯が有していたこともあり、フリードリヒ3世は明言を避けた[ 10] 。フランス王の反対や帝国諸侯が豪胆公の好戦的な性格を恐れていたという背景もあり、結局11月24日の夜半に皇帝一行は闇にまぎれて立ち去った[要出典 ] 。業を煮やした豪胆公は帝国に侵攻したが皇帝軍に撃退され、スイス人にも2度にわたり敗戦した[ 10] 。豪胆公はトーリアの会見でマクシミリアン1世を気に入っていたこともあり、何の条件もなく愛娘マリーの縁談を承諾した。さらに、豪胆公は1477年 1月5日 にナンシーの戦い で戦死し、43歳で生涯を閉じた[ 10] 。豪胆公の死後、マクシミリアンとマリーは結婚し、豪胆公の遺領のうちネーデルラント やフランシュ=コンテ は2人のものになったが、ブルゴーニュ公の本領のほとんどはフランスに併合された。
その後、1488年 にブルターニュ公 フランソワ2世 が一人娘アンヌ を残して死没したときも同じような状況になった。アンヌも、既にマリーと死別していたマクシミリアンと婚約したが、フランス王シャルル8世 は武力で彼女を奪った。この事件が元で、フランス王家とハプスブルク家の関係は急速に悪化して行く。しかしブルゴーニュ家 との婚姻は、その後のハプスブルク家の結婚政策「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ 」の第一歩となった[要出典 ] 。
最期
フリードリヒ3世の棺 (シュテファン大聖堂 )
1493年 、フリードリヒ3世は77歳の高齢でリンツにおいて死去した。
施策
ルドルフ4世 (建設公)の「大特許状」を帝国法に組み込んだのはこのフリードリヒ3世で、以後ハプスブルク家は非常に大きな権利を得た。「大特許状」には「オーストリアは皇帝が介入できない永遠の封土であり、オーストリア大公は皇帝の助言者で、彼の知らないところではいかなる決定も下せない。オーストリアはあらゆる帝国税が免除されるが、帝国はオーストリアの安全を守る義務がある。オーストリアは義務で帝国に属しているのではなく、帝国に頼まれて帝国の臣になっている。」などとあり、ハプスブルク家が以後帝位を独占する一つの要因となるものであった[ 11] 。建設公の詐称に始まる「大公 」の称号も、帝国法によって正式のものとなった。
1442年 、フリードリヒ3世はフランクフルト 帝国議会で特別裁判所改革の法律を発布するが、この時の法律第17条冒頭に「神聖ローマ帝国とドイツ国民」といった表現が登場する[ 4] 。ここから次第に、「神聖ローマ帝国」という国号に「ドイツ国民」という言葉が付加されるようになり[ 4] 。このことはつまり、その帝国の支配領域がドイツ語圏に限られてきたということを追認せざるを得なくなった訳で、1486年 に使用された「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」は少なくともこの意味だった[ 4] 。歴代の皇帝が夢見てきた西ヨーロッパ全体の支配という目的を公式に放棄するとともに、大言を戒めるためともいえる[ 4] 。
子女
フリードリヒ3世とエレオノーレ・フォン・ポルトゥガル
長男クリストフ
長女ヘレネ
皇后エレオノーレ との間には3男2女をもうけた。うち成人したのは2人である。
系図
参考文献
脚注
注釈
^ ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途上である。またイタリア への宗主権を備える。
^ 当時は古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国の後継国家群を漠然と神聖ローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の教皇に任命され戴冠していた。「神聖ローマ皇帝」は歴史学的用語で実際の称号ではない。
出典
^ Frederick III Holy Roman emperor Encyclopædia Britannica
^ “世界大百科事典 第2版の解説 ”. コトバンク. 2018年2月11日 閲覧。
^ a b c d 江村『ハプスブルク家』「序章 ハプスブルクの揺籃期―ルードルフ一世からマクシミリアン帝へ―」《2―新天地オーストリア フリードリヒ三世》
^ a b c d e f g h i j 菊池『神聖ローマ帝国』「第八章 カール五世と幻のハプスブルク世界帝国」「神聖ローマ帝国の大愚図」
^ 中丸『ハプスブルク一千年』
^ 菊池『神聖ローマ帝国』p180
^ 小項目事典,367日誕生日大事典, ブリタニカ国際大百科事典. “フリードリヒ3世(フリードリヒさんせい)とは ”. コトバンク . 2020年8月5日 閲覧。
^
"A", Meyers Konversationslexikon , (various authors),
Volume 1, page 1, 1885-1890, web (Commons):
MKL-b1-p1 : has "A.E.I.O.U."
on first page of entire 16-volume encyclopedia, as 3 Latin
phrases: "Austriae est imperare orbi universo" and
"Austriae est imperium orbis universi" with the German
phrase "Alles Erdreich ist Oesterreich unterthan" noted
with "Friedrich III." , plus a 3rd Latin phrase
"Austria erit in orbe ultima" with "Österreich wird bestehen bis ans Ende der Welt"
("Austria will stand until the end of the world"); note that
"Oesterreich" is "Österreich" ("Oe") with first letter "O".
^ 柴田治三郎 責任編集『世界の名著 45 ブルクハルト』 中央公論社 1966、80頁上・下。
^ a b c 江村『ハプスブルク家』「第一章 マクシミリアン一世―華麗なるブルコーニュ文化のさなかで―」《1―ブルゴーニュ公国 トーリアの会見》
^ 菊池『神聖ローマ帝国』「第八章 カール五世と幻のハプスブルク世界帝国」「帝国議会と領邦議会」