ジギスムント (神聖ローマ皇帝)

ジギスムント / ジグモンド / ジクムント
Sigismund / Zsigmond / Zikmund
神聖ローマ皇帝
ハンガリー王
ボヘミア王
皇帝ジギスムント(アルブレヒト・デューラー作、16世紀)
神聖ローマ皇帝、ハンガリー王、ボヘミア王など5つの紋章が描かれている。
在位 1387年 - 1437年(ハンガリー王)
1410年 - 1437年(ローマ王)
1419年 - 1437年(ボヘミア王)
戴冠式 1387年3月31日(ハンガリー王)
1414年11月8日(ローマ王)
1420年7月28日(ボヘミア王)
1433年5月31日(神聖ローマ皇帝)
別号 ローマ王
クロアチア王
ブランデンブルク選帝侯
ルクセンブルク公

出生 (1368-02-15) 1368年2月15日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
帝国自由都市ニュルンベルク
死去 (1437-12-09) 1437年12月9日(69歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ボヘミア王国モラヴィア辺境伯領)、ズナイム
埋葬 ハンガリー王国ナジヴァーラド
配偶者 ハンガリー女王マーリア
  バルバラ・ツェリスカ
子女 エリーザベト
家名 ルクセンブルク家
王朝 ルクセンブルク朝
父親 カール4世
母親 エリーザベト・フォン・ポンメルン
テンプレートを表示

ジギスムント(Sigismund, 1368年2月15日 - 1437年12月9日[1][2])は、ルドルフ1世から続く9代目の非世襲ローマ王(ドイツ王、在位:1410年 - 1437年[注釈 1]ルクセンブルク家として4人目で最後。元はハンガリー王ジグモンド(Zsigmond、在位:1387年[2] - 1437年)、さらに兄ヴェンツェルの後を継いでボヘミア王ジクムント(Zikmund、在位:1419年 - 1437年)。一時期はルクセンブルク公(在位:1378年 - 1388年)、ブランデンブルク選帝侯(在位:1378年[2] - 1388年、1411年 - 1415年)でもあった。晩年に神聖ローマ皇帝としても戴冠した。(在位:1433年 - 1437年)[注釈 2]。フランス名はシジスモン(Sigismond)。

父は神聖ローマ皇帝カール4世、母は4番目の妃で[2]ポーランド王カジミェシュ3世の孫娘エリーザベト[3]。ニュルンベルクで生まれた[2][4]。ローマ王ヴェンツェルの異母弟。在位中の1415年、自らが兼ねるブランデンブルク選帝侯をホーエンツォレルン家ニュルンベルク城伯フリードリヒ6世に譲渡した[5]。半世紀にわたりハンガリー王として在位し、治世後半には神聖ローマ皇帝およびボヘミア王も兼ねたが、その死によって皇帝家・王家としてのルクセンブルク家は事実上断絶した。

生涯

幼少期

ジギスムントは1368年2月15日、ニュルンベルク神聖ローマ皇帝カール4世とその4番目の妃エリーザベトの間に生まれた[2]。異母兄ヴェンツェルと同様ドイツ語チェコ語のバイリンガルとして育ち、後にフランス語ラテン語ハンガリー語イタリア語スラヴ語(おそらくポーランド語)を学んだ[2]。ヴェンツェルが1378年にボヘミア王位を継ぐと、次男であるジギスムントは兄からブランデンブルク辺境伯を継いだ[2]。1379年9月にはカール4世とハンガリー王ポーランド王ラヨシュ1世の間で、ラヨシュ1世の娘マーリアとジギスムントの結婚が合意されたが、マーリアの母エルジェーベトの反対もあって中々実現されなかった[2]

ハンガリー王位継承争い

女王マーリア

アンジュー家出身のラヨシュ1世は東欧に「大アンジュー帝国」とも呼ぶべき一大勢力を築いたが、男子に恵まれず2人の娘を残して1382年に没した。ラヨシュ1世は遺言で、次女マーリアを、ルクセンブルク家出身で神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の息子の一人であるジギスムントと結婚させ、両王国の共同統治者とするものとしていた。これに対してポーランド貴族(シュラフタ)は、マーリアの妹で三女のヘドヴィグ(ヤドヴィガ)を女王に推戴して同君連合を解消する。ルクセンブルク家はポーランドの宿敵であるドイツ騎士団の支援者だったからである。その後ヤドヴィガが1386年にリトアニア大公ヴワディスワフ2世と結婚し[2]、ハンガリーとの同君連合の道は完全に断たれた。

ハンガリーでも王位継承を巡って混乱が起きていた。始めにラヨシュ1世の死後ハンガリー王位はマーリアが継承し、彼女の母エリザベタはマーリアとフランスのオルレアン公ルイ1世との婚姻を企てたが、これに対して反乱が起こった。ジギスムントはこれに乗じて、ブランデンブルク辺境伯領を担保にしてハンガリーへと派兵して反乱を鎮圧し[6]、エリザベタの反対を押し切って1385年9月末、オーフェンでマーリアと結婚した[7]。しかしこの結婚式に賛成したハンガリー貴族はラツクフィ家などごくわずかで、大部分の大貴族(マグナート、代表的なのがハンガリー南部を支配するガライ家ホルヴァティ家)は反対していた。特にホルヴァティ家は、アンジュー家の同族であるナポリ王カルロ3世に王位に就くよう要請し、カルロもこれに応える形で軍を率いてハンガリーに侵攻し、ハンガリー王カーロイ2世として即位する。カーロイ2世の簒奪に対し、ジギスムント側に寝返った副王ガライ・ミクローシュとマーリアの母エルジェーベトは共闘して1386年2月7日に[8]カーロイ2世を殺害した。ホルヴァティ家は新たにカーロイ2世の遺児、ナポリ王ラディズラーオを新たな王に立てようとし、さらには和平に赴いたマーリアの一行を襲った。結果、ガライは殺され、エルジェーベトは獄死し、マーリアは幽閉された。

後にガライ家とホルヴァティ家は和解し、マーリアも釈放されたが、その代償としてジギスムントは大貴族と同盟して統治する義務を課せられ、これが破られた場合に大貴族が武力を行使することさえ認めさせられた(公式的同盟)。しかも、内戦中にハーリチをポーランドに奪取された。このような犠牲を払いながらも、1387年3月31日に[8]ジギスムントも晴れてハンガリー王として即位した[9][10]。ただし、ナポリ王家との抗争は後々まで尾を引くことになる。

1388年、派兵の担保としていたブランデンブルクはヨープストへと渡された[8]

ニコポリス十字軍

ニコポリスの戦い

ハンガリー王になったジギスムントの課題は、バルカン半島で膨張著しいオスマン帝国への対策であった。オスマン帝国のハンガリーへの侵入はラヨシュ1世の頃から始まっていたが(ラヨシュは1375年にオスマン軍を撃破していた)、1389年に即位したバヤズィト1世の下で勢いを増していた[8]。オスマン帝国の侵攻に対し、ジギスムントは国内外に訴えて、ローマ教皇ボニファティウス9世十字軍勅書を出すことで後援した。この間、マーリアの死という悲運に見舞われたが(1395年[2])、イングランドスコットランドフランス神聖ローマ帝国諸侯、フランドルイベリア、ポーランド、ボヘミアワラキアなどから次々と将兵が集まった。

対オスマン戦を熟知しているジギスムントはブダにオスマン軍を引きつけて消耗させる案を示したが、血気に逸るブルゴーニュ公ジャン(無怖公)エルサレム解放の大義を掲げるのに押され、積極的な攻撃策を採ることになった。こうして10万を超える軍勢が出撃したが、カトリックを奉じる西欧騎士と正教を奉じるバルカン戦士との確執、旧態依然の騎士突撃戦法が仇となり、1396年ニコポリスの戦いでバヤズィト1世に大敗北を喫した。無怖公は捕虜となり、ジギスムントは辛くも逃げ延びた。その後、バヤズィト1世が1402年アンカラの戦いティムールに敗北したことで、ヨーロッパはしばらくの間オスマンの脅威から解放されることになる。

ハンガリー国内改革

ニコポリスでの大敗によってジギスムントの威信は地に堕ち、ジギスムントに対する不満が高まった[11]。ハンガリーに帰国したジギスムントは、ニコポリス十字軍の敗因を国内の旧弊にあるとみなし、改革を行った。改革の最大の課題は大貴族への対策である。既にラヨシュ1世の時代に大貴族は勢力を増し、ジギスムントの王領・王城の半数を蚕食するなど、その勢いはとどまることがなかった。しかもニコポリスでの敗北を機に、大貴族の一人ラツクフィ・イシュトヴァーンはジギスムントに代えてラディズラーオを王位に就けようと画策していた。陰謀は寸前で阻止されたが、大貴族の勢力は侮り難いものになっていた。

そこでジギスムントは大貴族に対抗するため、国内外の有能な人物を多数登用して新貴族を育成していった。この政策は後に効果を現するが、大貴族の反発に遭い、ジギスムントは1401年ブダ城に監禁された。その後、信奉者によってジギスムントは救出され、謀反者たちに寛大な処置を取ることで人望を獲得していった。翌1402年、ジギスムントは後継者としてハプスブルク家オーストリア公アルブレヒト4世を指名したが、大貴族の一部(特にアンジュー派貴族)が反乱を起こし、またもラディズラーオを推戴しようとした。反乱を鎮めたジギスムントはここでも寛容を示し、大貴族を掌握することに成功した。

1405年ごろ(1408年とも[11])、ジギスムントはツェリェ伯ヘルマン2世の娘バルバラ・ツェリスカと再婚した[8][12]。ヘルマン2世はマーリアとは共に母方の従兄妹であり、アールパード朝のハンガリー王イシュトヴァーン5世を始め、中東欧の多くの名門貴族の血を引いており、この結婚でジギスムントの王位の正統性の補強が期待された。ハンガリーとイタリアを結ぶ重要な拠点であるツェリェ地方に勢力基盤を築くことができるようにもなり、これにより国内の不満は和らいだ[13]。しかもこの結婚の結果、ツェリェ家が統治していたアドリア海沿岸の要所スロヴェニアを獲得した。1409年、ジギスムントとバルバラの間に一人娘であるエルジェーベト(エリーザベト)が生まれた[8]

ジギスムントはバルバラや自分に忠誠を誓う大貴族とともに、1408年ドラゴン騎士団を創設する[8]。これは対オスマン戦に向けて創設したもので、当初は24人の名士からなっていたが、後に国外の王侯貴族も加わった。その中の一人がワラキア公ヴラド2世であり、騎士団にちなんでドラゴン(ドラクル)公と呼ばれた。ヴラド2世の息子がドラキュラ伯爵のモデルとなったヴラド・ツェペシュであるが、ドラキュラは元来「ドラクルの子」といった意味であった。

ジギスムントが大貴族と共に勢力削減の対象にしたのが高位聖職者である。ラディズラーオ擁立の陰謀には高位聖職者も参加し、さらにはローマ教皇も支持していたからであった。1404年にジギスムントは、教皇令は国王の同意抜きでは公布することができないという勅令(国王同意権)で、教皇の高位聖職者の叙任権を剥奪した。そして1417年に、ハンガリー王が司教および大司教を任命できる権利を教皇から承認された。

ジギスムントは大貴族・高位聖職者を封じ込めるため、国王顧問会議に彼らと共に加わる者として「特別顧問官」を設置し、官僚を国政に参与させた。また、都市に特権を与えるなどして強化も図った。

皇帝位の獲得

1410年、ローマ王ループレヒトが死去した。そのため、ジギスムントは帝国諸侯からローマ王に選出され、即位することになった[14]。この時、同族の従兄であるモラヴィア辺境伯ヨープストが共同統治王に立って争ったが、翌1411年にヨープストが死去したため、単独のローマ王となった[14][15]。ジギスムントは、ローマ教皇を保護することで皇帝権力の強化を目指した。この頃、ローマ教会は複雑な対立から分裂していたが(教会大分裂)、ジギスムントは1414年コンスタンツ公会議を開催して、ローマ教会の再統一を果たした[8][16]。確かにこれによって神聖ローマ帝国君主としての権威は一時的に強化された。一方でハンガリー統治は疎かになり、ヴェネツィア共和国1411年ダルマチア奪還を目指して戦争を起こし、ジギスムントが1420年にダルマチアを割譲したことでハンガリーはアドリア海への出口を失った。

ボヘミア王位継承とフス戦争

ボヘミア国民に人望があった、キリスト教改革派のフス派プロテスタントの先駆)の創始者であったヤン・フスは、コンスタンツ公会議で異端として有罪とされ[8]、ジギスムントは会議中の彼の身の安全を保障した約束を反故にしてフスを火刑に処した[17][18]。このため、ボヘミア国民はジギスムントに対して不満を抱いた。復位を狙って対立していた前々帝にしてボヘミア王の異母兄ヴェンツェルが1419年に死去してジギスムントがボヘミア王位を継承することになると遂に不満は爆発し[19]、大規模な反乱を起こした。これがフス戦争である。

ジギスムントは反乱を鎮圧するため何度もボヘミアに軍を送り、教皇と共に対フス派十字軍の号令もかけたが、その都度フス派の指導者であるヤン・ジシュカの指揮する義勇兵(市民軍)の前に敗れ続けた。

また、ジギスムントがボヘミア王位を獲得したことで、ハンガリーへもフス戦争が波及した。1432年にボヘミア国境地帯で農民反乱が起きたのを皮切りに、ナジントルバトランシルヴァニアで次々と農民主導の反乱が起きた。これに対してローマ教皇はフランシスコ修道会士マルキアのヤコブス異端審問官として派遣し、徹底的な弾圧を受けたフス派はモルダヴィアに逃れ、同地で聖書のハンガリー語訳(フス派聖書)を行った。フス戦争は1434年にボヘミア国内では収束するが、前後して急進派(ターボル派)の残党が多数ハンガリー北部、特にスロヴァキアに逃れてきた。彼らはターボル派の元幹部ヤン・イスクラの許で黒衛軍という独自の勢力を築いた。

ジギスムントは軍事的な解決ではなく政治的な解決を試みたが、政治改革や外交などの全てにおいて失敗したため、皇帝としての威信を完全に失った。

死去

1433年5月31日にローマ皇帝として戴冠し[20]、1436年にはボヘミア貴族によって正式にボヘミア王位を認められたが、翌1437年にズノイモにて[1][2]戦争で疲弊した国々を残して老人性悪性骨格潰瘍のため没した[21]。ジギスムントの死により、ルクセンブルク家の男系男子は絶えた。ローマ皇帝位、ハンガリー王位、ボヘミア王位は、オーストリア公アルブレヒト5世(ローマ王(ドイツ王)アルブレヒト2世、ハンガリー名アルベルト)が継承した。アルブレヒト5世はジギスムントの一人娘エリーザベトの婿であり、またかつて後継者に指名したアルブレヒト4世の息子であった。しかしアルブレヒトは2年後の1439年に病没し、ローマ皇帝・ハンガリー王・ボヘミア王にはそれぞれ異なる者が推戴された。

評価と遺産

ハンガリー

フニャディ・ヤーノシュ

ジギスムントは若い頃より浪費家で、自らの城を貴族に与えるなど、物惜しみしない人物であったといわれている[9]。また、泰然として仮借のない性格であったとも言われる[10]。ジギスムントのハンガリー統治は、ラヨシュ1世の遺産をことごとく食い潰したと言える。特に、対オスマン対策を怠ったことは後世非難され、現代でもハンガリーでの評価は低い。もっとも、ラヨシュ1世の統治自体がすでに不安定なものであり、そのつけをジギスムントが払わされた格好となったのもまた事実である。

ハンガリーにおいて、大貴族に対抗するために登用した新貴族の中からフニャディ・ヤーノシュが現れている。フニャディはワラキアの出身であるが、ジギスムントの庶子との噂があった。やがてフニャディは対オスマン戦で活躍し、その息子フニャディ・マーチャーシュの下で、ハンガリーは束の間の繁栄を迎える。

神聖ローマ帝国

粘り強い外交により教会統一を実現させることができた点はジギスムントの功績である[8][21]。もっとも、ブルクハルトは「半年以上もシエーナの市で、まるで借金を払えないため牢屋に入れられでもした人間のように、すわりとおし、のちにかろうじてローマで戴冠にまでこぎつけることができた」「まったくのいかさま師」と手厳しい[22]

子女

最初の妻マーリアとは子供がないまま死別した。

後妻バルバラとの間に娘1人をもうけた[8]

ジギスムントの死後、ローマ王、ボヘミア王、ハンガリー王はエリーザベトの夫であるアルブレヒト2世が継承することとなった。

登場作品

コミック
ゲーム

脚注

注釈

  1. ^ ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途上である。またイタリアへの宗主権を備える。
  2. ^ 当時は古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国の後継国家群を漠然と神聖ローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の教皇に任命され戴冠していた。「神聖ローマ皇帝」は歴史学的用語で実際の称号ではない。

出典

  1. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2022年1月31日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m Schlotheuber、p.358
  3. ^ 鈴本、p. 127
  4. ^ 鈴本、p. 128
  5. ^ 成瀬他、p. 379
  6. ^ Schlotheuber、p.358-359
  7. ^ 瀬原、p. 220
  8. ^ a b c d e f g h i j k Schlotheuber、p.359
  9. ^ a b 瀬原、p. 229
  10. ^ a b 鈴本、p. 129
  11. ^ a b 鈴本、p. 134
  12. ^ 瀬原、p. 240
  13. ^ 鈴本、p. 135
  14. ^ a b 瀬原、p. 242
  15. ^ 成瀬他、p. 377
  16. ^ 清原、p. 273
  17. ^ 瀬原、p. 268
  18. ^ 鈴本、p. 175-176
  19. ^ 鈴本、p. 189
  20. ^ 瀬原、p. 301
  21. ^ a b 瀬原、p. 309
  22. ^ 柴田治三郎責任編集『世界の名著 45 ブルクハルト』 中央公論社1966、80頁上。

参考文献

関連項目

先代
ヴェンツェル(ヴェンセラス)2世
ルクセンブルク公
1378年 - 1388年
次代
ヨープスト(ジョス)
先代
ヴェンツェル
ブランデンブルク選帝侯
1378年 - 1388年
次代
ヨープスト
先代
ヨープスト
ブランデンブルク選帝侯
(復位)1411年 - 1415年
次代
フリードリヒ1世
先代
ヴァーツラフ4世
ボヘミア王
1419年 - 1437年
次代
アルブレヒト2世
先代
カーロイ2世
マーリア
ハンガリー王
1387年 - 1437年
(1395年までマーリアと共同統治)
次代
アルベルト

Read other articles:

artikel ini tidak memiliki pranala ke artikel lain. Tidak ada alasan yang diberikan. Bantu kami untuk mengembangkannya dengan memberikan pranala ke artikel lain secukupnya. (Pelajari cara dan kapan saatnya untuk menghapus pesan templat ini) Artikel ini sebatang kara, artinya tidak ada artikel lain yang memiliki pranala balik ke halaman ini.Bantulah menambah pranala ke artikel ini dari artikel yang berhubungan atau coba peralatan pencari pranala.Tag ini diberikan pada Februari 2023. Helwan HA-...

 

Ada usul agar artikel ini digabungkan dengan Candi Banon. (Diskusikan) Mitologi Foto Arca Ganesha yang diambil dari Museum Nasional Indonesia dengan kondisi yang sudah diperbaiki pada beberapa bagian. Ganesha dalam mitologi Agama Hindu merupakan anak dari seorang Dewa Siwa dan Dewi Parwati. Ia juga dikenal sebagai Dewa Ilmu Pengetahuan, Kebijaksanaan, dan Penghancur Rintangan.[1] Dewa Ganesha digambarkan sebagai laki-laki dengan perut buncit atau disebut dengan tundila, berkepala gaja...

 

Alphonse EthierFrank H. Crane, Violet Heming dan Alphonse Ethier dalam An Assisted Elopement (1910)Lahir(1874-12-10)10 Desember 1874Virginia City, Nevada, Amerika SerikatMeninggal4 Januari 1943(1943-01-04) (umur 68)Hollywood, California, Amerika SerikatPekerjaanPemeranTahun aktif1910–1939Suami/istriCatherine Falloway Alphonse Ethier (10 Desember 1874 – 4 Januari 1943) adalah seorang pemeran film Amerika Serikat.[1] Ia tampil dalam lebih dari 70 film antara...

Medical service network University of Vermont Health Network redirects here Hospital in Vermont, U.S.University of Vermont Medical CenterUVM Medical Center Main CampusGeographyLocation111 Colchester Avenue, Burlington, Vermont, U.S.Coordinates44°28′47″N 73°11′39″W / 44.479794°N 73.194119°W / 44.479794; -73.194119OrganisationTypeTeachingAffiliated universityUniversity of VermontServicesEmergency departmentIBeds620HelipadYes (FAA LID: 67VT)HistoryOpened1879&#...

 

Filipino actor In this Philippine name, the family name is Buencamino. Nonie BuencaminoBuencamino in 2017BornAnthony Buencamino (1966-11-28) November 28, 1966 (age 57)Manila, PhilippinesNationalityFilipinoEducationAteneo de Manila UniversityOccupationActorYears active1990–presentSpouse Shamaine Centenera ​(m. 1990)​Children4 (including Julia) Anthony Buencamino (born November 28, 1966), known professionally as Nonie Buencamino, is a Filipino character ...

 

Ahmed Hossam Ahmed Hossam Hussein Abdelhamid (bahasa Arab: أحمد حسام) (lahir 23 Februari 1983; akrab dipanggil Mido) adalah seorang pemain sepak bola asal Mesir. Posisinya adalah penyerang. Sejak tahun 2007 ia membela Middlesbrough di Liga Utama Inggris. Ia dikenal kuat dalam memperebutkan bola-bola di udara namun juga merupakan pemain yang temperamental. Pada tahun 2002 ia terpilih sebagai Pemain Remaja Terbaik Afrika. Setahun sebelumnya ia mulai dipanggil ke tim nasional sepak bola ...

Pullao dari Punjab, Pakistan Pilaf dari bulgur (masakan Turki) Plov (bahasa Rusia: плов), Pilaf (bahasa Persia: پلو) (variasi ejaan berbagai bahasa: polao, pullao, pilau, pilav, atau pilaff) adalah hidangan dari beras atau bulgur yang ditumis bersama rempah-rempah di dalam minyak samin hingga kekuningan dan ditanak dengan air kaldu. Hidangan ini sangat umum dalam masakan Timur Tengah, Asia Tengah, Asia Selatan, Afrika Timur, dan Amerika Latin. Plov dapat memakai sayuran bercampur dagin...

 

Questa voce o sezione sull'argomento calciatori australiani non cita le fonti necessarie o quelle presenti sono insufficienti. Puoi migliorare questa voce aggiungendo citazioni da fonti attendibili secondo le linee guida sull'uso delle fonti. Segui i suggerimenti del progetto di riferimento. Questa voce sull'argomento calciatori australiani è solo un abbozzo. Contribuisci a migliorarla secondo le convenzioni di Wikipedia. Segui i suggerimenti del progetto di riferimento. Alex Bros...

 

2000 song by U2 and Daniel Lanois The Ground Beneath Her FeetCover of the US promotional singleSong by U2 with Daniel Lanoisfrom the album The Million Dollar Hotel: Music from the Motion Picture Released8 February 2000GenreRockLength3:44LabelIsland / InterscopeComposer(s)U2Lyricist(s)Salman RushdieProducer(s)Daniel Lanois, Brian Eno The Ground Beneath Her Feet is a song by Irish rock band U2. It appears in the 2000 film The Million Dollar Hotel, which was produced by U2 lead vocalist Bono, an...

Pour des articles plus généraux, voir Chronologie des États-Unis et 1903. Éphémérides 23 juillet : sortie de la Ford Model A de 1903Chronologie des États-Unis 1900 1901 1902  1903  1904 1905 1906Décennies aux États-Unis :1870 1880 1890  1900  1910 1920 1930 Chronologie dans le monde 1900 1901 1902  1903  1904 1905 1906Décennies :1870 1880 1890  1900  1910 1920 1930Siècles :XVIIIe XIXe  XXe  XXIe XXIIeMillénaire...

 

In musical theory, 34 equal temperament, also referred to as 34-TET, 34-EDO or 34-ET, is the tempered tuning derived by dividing the octave into 34 equal-sized steps (equal frequency ratios). Playⓘ Each step represents a frequency ratio of 34√2, or 35.29 cents Playⓘ. History and use Unlike divisions of the octave into 19, 31 or 53 steps, which can be considered as being derived from ancient Greek intervals (the greater and lesser diesis and the syntonic comma), division into 34 step...

 

非常尊敬的讓·克雷蒂安Jean ChrétienPC OM CC KC  加拿大第20任總理任期1993年11月4日—2003年12月12日君主伊利沙伯二世总督Ray HnatyshynRoméo LeBlancAdrienne Clarkson副职Sheila Copps赫布·格雷John Manley前任金·坎貝爾继任保羅·馬田加拿大自由黨黨魁任期1990年6月23日—2003年11月14日前任約翰·特納继任保羅·馬田 高級政治職位 加拿大官方反對黨領袖任期1990年12月21日—1993年11月...

 烏克蘭總理Прем'єр-міністр України烏克蘭國徽現任杰尼斯·什米加尔自2020年3月4日任命者烏克蘭總統任期總統任命首任維托爾德·福金设立1991年11月后继职位無网站www.kmu.gov.ua/control/en/(英文) 乌克兰 乌克兰政府与政治系列条目 宪法 政府 总统 弗拉基米尔·泽连斯基 總統辦公室 国家安全与国防事务委员会 总统代表(英语:Representatives of the President of Ukraine) 总...

 

سعدون حمادي معلومات شخصية الميلاد 22 يونيو 1930(1930-06-22)كربلاء الوفاة 14 مارس 2007 (76 سنة)ألمانيا  سبب الوفاة ابيضاض الدم  مواطنة العراق  الديانة مسلم شيعي مناصب رئيس وزراء العراق   في المنصب23 مارس 1991  – 13 سبتمبر 1991  الحياة العملية المدرسة الأم جامعة ويسكونسن-ماديسو�...

 

Romanian medium tank project 1942 medium tank[a] TypeMedium tankPlace of origin Kingdom of RomaniaService historyWarsWorld War IIProduction historyDesigned1942No. builtproposalSpecificationsMass16-18 tonnesHeight2 m or lessCrew4Armor40-60 mmMainarmament1 x gun of 50 mm or higher caliberSecondaryarmament1 or 2 x machine gunsMaximum speed 50 km/h In 1942, a medium tank was proposed to be produced by the Axis-aligned Kingdom of Romania. The reason behind the proposal ...

British Conservative politician Not to be confused with Fiona Bruce, television presenter The subject of this article is standing for re-election to the House of Commons of the United Kingdom on 4 July, and has not been an incumbent MP since Parliament was dissolved on 30 May. Some parts of this article may be out of date during this period. Please feel free to improve this article (but note that updates without valid and reliable references will be removed) or discuss changes on th...

 

Japanese high-speed Shinkansen train service TokiE7 series set F21 on a Toki service in January 2021OverviewService typeShinkansen (Semi-express)StatusOperationalLocaleHonshu, JapanFirst service10 June 1962 (Limited express)15 November 1982 (Shinkansen)Current operator(s)JR EastFormer operator(s)JNRRouteTerminiTokyoNiigataLine(s) usedJoetsu ShinkansenOn-board servicesClass(es)Standard + Green + Gran ClassCatering facilitiesTrolley serviceTechnicalRolling stockE7 seriesTrack gauge1,435 mm...

 

For the Albanian village, see Bujan. For other uses, see Buyan (disambiguation). Buyan Island, by Ivan Bilibin In the Dove Book and other medieval Russian books, Buyan (Russian: Буя́н, sometimes transliterated as Bujan[1]) is described as a mysterious island in the ocean with the ability to appear and disappear with the tide. Three brothers—Northern, Western, and Eastern Winds—live there, and also the Zoryas, solar goddesses who are servants or daughters of the solar god Dazh...

هذه المقالة تحتاج للمزيد من الوصلات للمقالات الأخرى للمساعدة في ترابط مقالات الموسوعة. فضلًا ساعد في تحسين هذه المقالة بإضافة وصلات إلى المقالات المتعلقة بها الموجودة في النص الحالي. (أبريل 2023) أكاديمية البحث العلمي والتكنولوجيا ASRT تفاصيل الوكالة الحكومية البلد  مصر ال...

 

British film critic and writer (1897–1973) For the French skater, see Caroline Lejeune (skater). Lejeune with her son Anthony, c.1931 Caroline Alice Lejeune (27 March 1897 – 31 March 1973) was a British writer, best known for serving as the film critic for The Observer from 1928 to 1960. She was among the earliest newspaper film critics in Britain, and one of the first British women in the profession. She formed an enduring friendship early in her career with Alfred Hitchcock, “when he ...