弁護士資格免許を取得した時点ですでにジャーナリストとしての道を歩み始めており、『セント・ジェームズ・ガゼット(英語版)』紙で1892年から1897年まで編集長を、1897年から1899年まで編集長を務めた[1]。『セント・ジェームズ・ガゼット』は保守派に属しており、チザム自身も保守党のベンジャミン・ディズレーリが提唱したような帝国主義政策と関税改革政策を支持して、自由党のウィリアム・グラッドストンを批判した[2]。1898年にグラッドストンが死去して、イギリスが挙国哀悼ムードになったときにも「どうして過去のことを糊塗しようとするのか」(Why gloss over the past?)と『セント・ジェームズ・ガゼット』で批判した[2]。政治以外では文学批評も投稿している[1]。
1903年、フーパーはチザムに新版の編集長になるよう求め、チザムは了承して作業に取り掛かった[2]。チザムがイギリスに住み、フーパーがアメリカに住んだものの、2人の協力は成功し、1910年にはブリタニカ百科事典第11版の編集が完成した[2]。フーパーは百科事典を大衆にも読めるよう改革したいと望み、チザムがその望みを「独学の民主化」(democratising the means of self-education)と形容したという[2]。具体的な手法としては、1つの記事を短くして、記事数を大幅に増やした(第10版が1万7千記事だったのに対し、第11版は4万記事を誇った[2])。しかし、1908年に『タイムズ』紙を買い取った初代ノースクリフ男爵アルフレッド・ハームズワースがフーパーとのブリタニカ百科事典共同出版から手を引いたため、1910年にケンブリッジ大学出版局が参入し、ブリタニカ百科事典第11版は1911年に出版にこぎつけた[2]。
ジョン・リチャード・ハリソン(1905年11月27日 – 1987年11月13日) - ウェストミンスター・スクールで教育を受けた後、オックスフォード大学クライスト・チャーチに進学、1929年にB.A.の、1943年にM.A.の学位を修得した[11]。1932年から1974年まで事務弁護士業に従事した[11]。その傍ら宝石学にも興味を持ち、英国宝石学協会(Gemmological Association of Great Britain)が出版するThe Journal of Gemmology誌で1973年から1985年まで編集長を務め、1984年に協会の副会長に選出された[11]