パブロ・コントレラス(Pablo Andrés Contreras Fica, 1978年9月11日 - )は、チリ・首都州サンティアゴ出身の元サッカー選手。チリ代表である。ポジションはDF(センターバック)。
クラブ経歴
CSDコロコロ
CSDコロコロの下部組織出身。1997年にプロデビューし、チリ代表出場50試合超を誇るセンターバックのペドロ・レイエスの指導の下、1歳年上のダビド・エンリケスと名コンビを組んだ。レイエスがフランスのAJオセールに移籍した後の2シーズンは37試合に出場し、クラウスーラ1997と1998の2度のチリ・プリメーラ・ディビシオン制覇に貢献した。
ASモナコ
1999年、フランスのASモナコに移籍した。まだ21歳であったが、1999-2000シーズンのリーグ・アンとトロフェ・デ・シャンピオン(スーパーカップ)制覇の重要な要素であった。モナコでは1999-2000シーズンにUEFAカップ、2000-01シーズンにUEFAチャンピオンズリーグに出場した。しかし2001年1月、EU圏内枠を得るためにイタリアの偽造パスポートを使用していたことが発覚した。パリの裁判所は3万ユーロの罰金と2年間の出場停止処分をコントレラスに課した。
CAオサスナ
フランス国内ではしばらくプレーできなくなったため、アルゼンチンのラシン・クルブにレンタルに出され、そこで8試合に出場した。2001年6月にはスペインのセルタ・デ・ビーゴに完全移籍する可能性があったが、CAオサスナにレンタル移籍した。2001-02シーズンは31試合に出場して1得点したが、17位で降格を逃れた。
スポルティングCP
オサスナは下位に沈んだが、コントレラスのプレーはポルトガルの強豪スポルティングCPの目に留まり、2002-03シーズンはレンタル移籍することになった。リーグ戦では30試合に出場して2得点した。モナコ時代以来2度目のUEFAチャンピオンズリーグ出場を果たしたが、予選3回戦でインテル・ミラノと対戦して敗退した。コントレラス自身はホーム&アウェーの2試合ともに先発出場した。
セルタ・デ・ビーゴ
2003年、スペインのセルタ・デ・ビーゴに移籍した。セルタは前のシーズンに4位でUEFAチャンピオンズリーグ予選出場権を獲得していた。グループリーグは主に控えだったが、ACミランやアヤックス・アムステルダムと同居した難しいグループを2位で勝ち進んだ。決勝トーナメント1回戦でアーセナルFCと対戦した。終盤にホセ・アントニオ・レジェスに対するファールで2枚目のイエローカードを受け、退場となった。UEFAチャンピオンズリーグでは健闘したセルタだったが、リーグ戦は19位に終わり、セグンダ・ディビシオン(2部)への降格が決定した。しかし2004-05シーズンは2位ですぐさまプリメーラ・ディビシオン(1部)に昇格した。このシーズンにはポジションを掴み、その後2シーズンに渡ってポジションを維持した[1]。2005-06シーズンは6位でUEFAカップ出場権を獲得した。しかし2006-07シーズンはまたもやセグンダへの降格が決まった。2度目のセグンダでは監督に構想外とみなされ、2007年中にわずか3試合の出場機会しか与えられなかった[1]。2008年1月、セルタとの契約を解除した。
PAOKテッサロニキ
2008年1月、ポルトガルに戻ってSCブラガと6ヶ月間の契約をした。その間に13試合に出場した。同年6月、セルタ時代のチームメイトであるジシス・ヴリーザスがテクニカルディレクターを務めていた縁でギリシャのPAOKテッサロニキと2年間の契約をした。
代表経歴
1999年2月17日、グアテマラ戦でチリ代表デビューした。同年のコパ・アメリカでは4位入賞した。2000年のシドニーオリンピックでは銅メダルを獲得し、コントレラスは大会のベストディフェンダーのひとりに数えられた。2002年の日韓ワールドカップと2006年のドイツワールドカップの南米予選に参加したが、どちらの本大会にも出場は叶わなかった。
- コパ・アメリカ2007での事件と出場停止
コントレラスのキャリアの中で悪い時期が2007年のコパ・アメリカの大会中に訪れた。レイナルド・ナビア、ホルヘ・バルディビア、ロドリゴ・テージョ、ホルヘ・バルガス、アルバロ・オルメーニョはホテルで事件に巻き込まれた。ホテルのスタッフが、チリ代表選手が酒を飲んでバカ騒ぎし、食べ物を投げつけ、ホテルの備品を壊していたことを訴えたのである。この事件の後、チリはブラジルに1-6の大差で敗れた。ネルソン・アコスタ監督が辞職した後、関係したすべての選手にチリサッカー連盟から20試合の出場停止処分が下された[2]。10試合の出場停止が経過した後、オルメーニョを除く選手たちは、彼らの行いを認めて謝罪する文書にサインした。残りの10試合が終わると、マルセロ・ビエルサ新監督の下で代表の重要な選手のひとりに戻り、南アフリカワールドカップ予選に出場している。2008年10月にはワールドカップ予選で初めてアルゼンチン代表を破ったが、その試合でもコントレラスはフル出場している[3]。チリ代表の敗北は1916年から始まり、この試合前までの35戦で0勝9分26敗という有様だった。
所属クラブ
- 2001 → ラシン・クルブ (loan)
- 2001-2002 → CAオサスナ (loan)
- 2002-2003 → スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル (loan)
タイトル
- CSDコロコロ
- ASモナコ
- チリ代表
脚注
外部リンク