スティルスは1945年1月3日 (1945-01-03)、テキサス州ダラス生まれ、父親の仕事の都合から幼少の頃は南部を転々とし、12歳の頃に南米コスタリカに家族で渡った。スティルスのラテン音楽への執拗なアプローチも、この時の音楽体験が基になっている。フロリダ大学をドロップ・アウト後、ニューヨークに行きグリニッジ・ヴィレッジのフォーク・シーンと深く関わる。ヴィレッジのカリスマ的存在だったフレッド・ニール(Fred Neil)から強い影響を受け、12弦ギターの奏法やブルースについて多くを得ている模様。この時期参加していた9人編成のモダン・フォーク・グループがオウ・ゴー・ゴー・シンガーズ(The Au Go Go Singers)で、1964年 (1964)にアルバム『They Call Us Au Go-Go Singers』をレコーディングしている。メンバーにはリッチー・フューレイ(1944年5月9日 (1944-05-09)、オハイオ州デイトン生まれ)もいたが、グループは6週間にわたるテキサス巡業を繰り広げたものの、半年後の1965年4月 (1965-04)に入ってすぐにあっけなく解散してしまう。次にスティルスはオウ・ゴー・ゴー・シンガーズの残党4人と結成したザ・カンパニーズ(The Company)というグループで1965年4月 (1965-04)、請われるままにカナダにツアーに行き4月18日、マニトバ州ウィニペグのクラブ“フォース・ディメンション”に立ち寄った際にたまたま演奏していたロック・バンドがニール・ヤング率いるザ・スクワイアーズ(The Squires)だった[1][2]。
1966年 (1966)に入り、スティルス作の自作曲「シット・ダウン・アイ・シンク・アイ・ラヴ・ユー」(Sit Down, I Think I Love You)がリプリーズ・レコードのプロデューサーだったレニー・ワロンカー(Lenny Waronker)の手に渡り、モジョー・メン(The Mojo Men)によりトップ30入りのヒットとなる。そのアレンジを担当したのがヴァン・ダイク・パークスだった。スティルスはパークスとバンド結成を考えたが実現せず、グリニッジ・ヴィレッジ時代に知り合ったピーター・トーケルスンやロン・ロングらヴィレッジ時代の友人たちと“バッファロー・フィッシュ”を結成したところへ、NBCテレビが新番組に向けて若いタレントを募集中との知らせが舞い込む。1965年9月 (1965-09)に行われたオーディションの結果、歯並びの悪さを理由にスティルスは落とされ、方や合格したトールスケンは、モンキーズのピーター・トーク(Peter Tork)としてスターになったのは有名なエピソードとなっている。スティルスは、旧友であるフューレイをニューヨークから呼び寄せ、カナダで出会ったヤングのことを思い出していた。そして1966年4月6日 (1966-04-06)、サンセット・ブルーヴァード(Sunset Boulevard)での“伝説”が生まれた。スティルスが同乗するフューレイの白いバンが交通渋滞に巻き込まれていた時、反対車線を走るカナダのナンバープレートを付けた1953年 (1953)型ポンティアックの黒い霊柩車を見つけた。ヤングが黒い霊柩車を乗り回していたことを知っていた二人は、後を追いかけ運命の再会を果たす。その日のうちにスティルスは、マネジメントを依頼するつもりでいたバリー・フリードマンに、彼ら3人を引き合わせる。スキップ&ザ・フリップスやランプ・オブ・チャイルドフッドを経て、フリードマンが面倒を見るマストン&ブリューワーに在籍したビリー・マンディ(1942年9月25日 (1942-09-25)サンフランシスコ生まれ)がドラマーとして呼ばれ、仮のバンドはザ・ハード(The Herd)としてリハーサルを始めるが4月9日にマンディが脱退、数日後にはカントリー・バンドのザ・ディラーズ(The Dillards)のマネジメントをさばくジム・ディクスンの紹介で、ディラーズがドラムレスのブルーグラスに立ち戻ったため、職を失いつつあったことから同バンドを辞めたばかりのデューイ・マーティン(1940年9月30日 (1940-09-30)カナダ生まれ)が加わった。メンバーたちが寄宿する、ファウンティン・ストリートの借家の前に停めてあった道路工事用のスティームローラーのプレートから読み取れたメーカーの名前をグループ名とし、“バッファロー・スプリングフィールド”が結成された[1][2]。
録音、制作
グループは1966年4月11日 (1966-04-11)にハリウッドのクラブ“トルバドール”で最初のギグを行い、バーズのクリス・ヒルマン(Chris Hillman)がヤングとスティルスのギター・サウンドに衝撃を受け、コネがあった“ウィスキー・ア・ゴーゴー”(Whisky a Go Go)への6週間連続公演を取り付けてくれた。5月から6月にかけてのこのギグは評判を呼び、頃合いを見計らって、バンドの相談役でありかつてバリー・マクガイアらのロード・マネージャーを務めたディッキー・デイヴィスが動いた。彼はソニー&シェールを売り出した、チャーリー・グリーンとブライアン・ストーンが主宰するヨーク/パラ・プロダクション。そして、2万2千ドルの契約金を提示したアトランティック・レコード傘下のアトコ・レコードと契約を交わすことになる。この頃がバンドのまとまりとしては最高の時期だったようだが、この時期の記録が残っていないのが悔やまれる。初めてのレコーディングは、6月頃から、フィル・スペクターゆかりのゴールド・スター・スタジオにて進められてゆき、まず、当初B面の予定だった、彼らのデビュー・シングル「クランシーは歌わない」 (NOWADAYS CLANCY CAN'T EVEN SING)が7月31日にリリースされたが、思ったほどのチャート・アクションを起こさないまま、最初のアルバムである本作が12月20日にリリースされた[1][2]。
アルバム全体はスティーヴン・スティルス、ニール・ヤング、リッチー・フューレイと歌手兼ギタリストが3人いる協調関係が表面的には保たれている。ヤングらしいメランコリックな作風に包まれた「クランシーは歌わない」 (NOWADAYS CLANCY CAN'T EVEN SING)や「僕のそばに居ておくれ」(FLYING ON THE GROUND IS WRONG)等をフューレイのソフトで口当たりの良い声で歌わせる体裁など、このグループの未整理な部分を露呈している場面も少なくない。スティルスの作品では、荒々しい「リーヴ」(LEAVE)ではヤングの歯ぎしりするようなエレキ・ギターが活躍し、「ホット・ダスティ・ローズ」(HOT DUSTY ROADS)や「ペイ・ザ・プライス」(PAY THE PRICE)では、スティルスらしい豪放でファンキーな佇まいを見せる。「君を愛していると思う」(SIT DOWN I THINK I LOVE YOU)はサンフランシスコのモジョー・メン(The Mojo Men)がカバー・ヒットさせ、「ゴー・アンド・セイ・グッバイ」(GO AND SAY GOODBYE)は、フューレイが後に結成したポコ(Poco)の1972年 (1972)リリースのアルバム『グッド・フィーリン』(A Good Feelin' to Know)で再演した。ヤングの作品では「クランシーは歌わない」「僕のそばに居ておくれ」以外にも、快活な「バーンド」(BURNED)、泣かせる「アウト・オブ・マイ・マインド」(OUT OF MY MIND)があり、後者の2曲でのみ作者のヤング自身のリード・ヴォーカルが聴ける。フューレイが歌うヤング作品「いい娘になって」(DO I HAVE TO COME RIGHT OUT AND SAY IT)は、ロジャー・マッギン(Roger McGuinn)を意識したようなエレキと生ギターが融合する、バーズ(The Byrds)影響下の作品として興味深い[3]。
「SIT DOWN I THINK I LOVE YOU」(VOCALS – RICHIE & STEVE)
3.
「LEAVE」(VOCALS – STEVE WITH RICHIE)
4.
「NOWADAYS CLANCY CAN'T EVEN SING」(VOCALS – RICHIE WITH STEVE & NEIL)
5.
「HOT DUSTY ROADS」(VOCALS – STEVE WITH RICHIE)
6.
「EVERYBODY'S WRONG」(VOCALS – RICHIE & STEVE WITH NEIL)
7.
「FLYING ON THE GROUND IS WRONG」(VOCALS – RICHIE WITH STEVE & NEIL)
8.
「BURNED」(VOCALS – NEIL WITH RICHIE & STEVE (NEIL ON PIANO))
9.
「DO I HAVE TO COME RIGHT OUT AND SAY IT」(VOCALS – RICHIE WITH STEVE & NEIL (NEIL ON PIANO))
10.
「BABY DON'T SCOLD ME」(VOCALS – RICHIE & STEVE)
11.
「OUT OF MY MIND」(VOCALS – NEIL WITH RICHIE & STEVE)
12.
「PAY THE PRICE」(VOCALS – STEVE WITH RICHIE)
STEREO
#
タイトル
作詞
作曲・編曲
時間
13.
「FOR WHAT IT'S WORTH」(VOCALS – STEVE WITH RICHIE & DEWEY)
14.
「GO AND SAY GOODBYE」(VOCALS – RICHIE & STEVE)
15.
「SIT DOWN I THINK I LOVE YOU」(VOCALS – RICHIE & STEVE)
16.
「NOWADAYS CLANCY CAN'T EVEN SING」(VOCALS – RICHIE WITH STEVE & NEIL)
17.
「HOT DUSTY ROADS」(VOCALS – STEVE WITH RICHIE)
18.
「EVERYBODY'S WRONG」(VOCALS – RICHIE & STEVE WITH NEIL)
19.
「FLYING ON THE GROUND IS WRONG」(VOCALS – RICHIE WITH STEVE & NEIL)
20.
「BURNED」(VOCALS – NEIL WITH RICHIE & STEVE (NEIL ON PIANO))
21.
「DO I HAVE TO COME RIGHT OUT AND SAY IT」(VOCALS – RICHIE WITH STEVE & NEIL (NEIL ON PIANO))
22.
「LEAVE」(VOCALS – STEVE WITH RICHIE)
23.
「OUT OF MY MIND」(VOCALS – NEIL WITH RICHIE & STEVE)
24.
「PAY THE PRICE」(VOCALS – STEVE WITH RICHIE)
クレジット
A note from Buffalo Springfield: "Dawn of Stereo" Buffalo Springfield mixed this first album and turned it in. We mixed it mono, as that was all we knew at the time. Later we found out that our managers had done a rush "stereo mix" at Atco's request. When the stereo came out, it was the first we had ever heard of it. We were very surprised. That is why we have inclued both "mono" and "stereo" versions. We poured our hearts into the mono mixes and never had a chance at the stereo. The stereo version is by far the most common version available.
Further note: The Buffalo Springfield album was first released in December, 1966 (in both mono and stereo versions) as Atco 33-200; tracks 1-12 make up the mono version of the LP. Following the success of the subsequent single, "For What It's Worth", the album was re-released in April, 1967 (also both mono and stereo versions) as Atco 33-200A, with a new sequence which led off with "For What It's Worth" and omitted "Baby Don't Scold Me". Tracks 13-24 comprise the stereo version of that LP.