ネ・ウィン(ミャンマー語: နေဝင်း, ラテン文字転写: ne wang:/Ne Vaṅʻ"/Ne Win、IPA: [nè wɪ̃́] ネー・ウィン、1910年5月14日[1] - 2002年12月5日)は、ビルマ(現在のミャンマー)の軍人、政治家。幼名はシュ・マウン(ミャンマー語: ရှုမောင်, ラテン文字転写: hru. maung/Rhu Moṅʻ/Shu Maung、IPA: [ɕṵ mã̀ʊ̃])で、ネー・ウィンは1941年に武号としてつけたものであり、文字通りには〈輝く太陽〉を表す[2]。独立運動の功労者であり、独立後、軍最高司令官、連邦革命評議会議長、大統領、ビルマ社会主義計画党 (BSPP) 議長を務めるも独裁者として非難された。日本名は高杉晋(たかすぎ しん)。
1910年に客家系華人の血を引くビルマ人家庭に生まれ、医師を希望していたが諦めてラングーン大学を中退する。郵便局員を経て「われらビルマ人連盟」(ドバマ協会とも、ミャンマー語: တို့ဗမာအစည်းအရုံး, ラテン文字転写: tui.ba.ma a.cany:a.rum:/Tui' Bamā ʼAcaññʻ"ʼaruṃ"/Dobama Asiayone、IPA: [do̰bəmà ʔəsíʔəjṍʷ] ドバマー・アスィーアヨウン; またタキン党とも、ミャンマー語: သခင်, ラテン文字転写: sa.hkang/sakhaṅʻ/Thakhin、IPA: [t̪əkʰɪ̃̀])に加入する。援蒋ルート壊滅のためにビルマに目を付けた日本軍と接触。1941年2月にアウンサン率いる青年活動家グループ「三十人の志士」の一人として海南島で南機関から過酷な軍事訓練を受けた。彼らは12月にバンコクに移動しビルマ独立義勇軍を結成。ネ・ウィンは、国内撹乱を目的とするゲリラ班の班長として1942年1月に日本軍とともにビルマに進軍した。日本の敗勢が明らかになった1945年3月には、対日蜂起して日本軍を攻撃した。
イギリスの復帰を経て1948年ビルマは独立するが、その直後から反乱が続いた。また、シャン州やカチン州では中国国民党の残党が中国から侵入し、実効支配する有様であった(中国共産党に対する大陸反攻の拠点として、アメリカ合衆国はビルマ政府を半ば無視する形で公然と国民党部隊に軍事援助を行った)。当時のビルマ国軍は、旧ビルマ国民軍、それと対立するカレン族将校団をはじめ、ビルマにおける様々な政治勢力の寄り合い所帯であった。このため、ビルマ軍においては少数民族出身者や左翼系の将兵を中心に脱走・離脱が相次ぎ、一時的にビルマ政府の支配力はラングーン周辺までに減退させられた。このときウー・ヌ政権において、国軍の最高指揮官(国防相)だったネ・ウィンは、旧ビルマ国民軍出身者を優先的に起用し、カレン族やカチン族など少数民族の将兵を罷免するなどして(このとき放逐された部隊と将兵達が、カレン民族解放軍やカチン独立軍といった少数民族武装組織の基礎となった)、ビルマ族を中心とした国軍への立て直しに成功する。海外からの軍事物資の支援を例外として、ほぼ自力で平野部でのビルマ政府の支配権を回復させるまでに至る。また、中国国民党残党に対して、ウー・ヌが国連においてその存在を非難するとともに、中国共産党の人民解放軍との合同で中緬国境作戦を行い[3]、シャン州で掃討作戦を展開するなどしてビルマ国内からの排除に成功した。
こうした実績に自信がついた1962年には、軍事クーデターを決行してビルマに事実上の軍事政権を樹立した(ビルマのクーデター (1962年)(英語版))。ビルマ独自の社会主義政策(ビルマ式社会主義)を採り、連邦革命評議会議長を経て1974年から大統領になった。7年後に辞職した後もビルマ社会主義計画党 (BSPP) 議長を務め国政に君臨した。この期間のビルマは、外交では厳正な非同盟中立政策を採り、ビルマ共産党や各地の少数民族民兵組織との内戦において、諸外国の介入を防ぐ事に成功する。1965年以降ビルマ共産党をめぐって緊張関係となった中華人民共和国とも1971年3月に和解して経済援助を受けるようになり[4]、ベトナム戦争など近隣諸国の混乱にも巻き込まれずに済んだ。
しかしながら1970年代にはクーデター計画の発覚や、政権幹部の追放により国内が動揺。閣僚や企業のトップに軍人を優先して据えて対処した。1978年には経済は低迷したままといえども国内は安定を取り戻し、ネ・ウィンも2か月間海外での長期療養を行った[5]。
1983年にはラングーン事件が発生。ビルマ国内でテロを行った北朝鮮との国交を断絶し、国家承認の取り消しという厳しい措置を行い[6]、1985年にアウンサン廟を再建させた[7][8]。しかし、経済政策では完全に失敗し世界の最貧国に転落した。
1988年に国民の不満が爆発して民主化運動が発生。責任を取って党議長を辞任したが、その時の演説では「軍は国民に銃口を向ける」と民主化勢力を牽制した。辞任後も隠然たる影響力を持ち、晩年はそれまでの外交における中立姿勢にもかかわらずアメリカを批判していた。
ドゥワ・ラシ・ラー2021-[6]
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