しかしながらアーサーは大統領として官僚機構の頂点に立つこととなった。彼は古くからの政治上の知己を避け、結局政治の師であったコンクリングと袂を分かった。ガーフィールド大統領の暗殺で、扱いにくい議会は公共からの圧力が高まり、大統領に留意することを強いられた。アーサーの第一の実績はペンドルトン公務員改革法の議会通過であった。本法の成立により、アーサーは「行政の父 The Father of Civil Service」と呼ばれるようになり、多くの歴史家から肯定的な評価を得るようになった。
多くの公式文書ではアーサーが1829年10月5日にバーモント州フランクリン郡のフェアフィールド(英語版)で生まれたとしている。しかしながら、アーサーは1870年代にその生年を1830年とし、自らを1歳若く見せようとした[4]:5[7]。父親は初めにローワー・カナダのダンハム(英語版)に移住し、アメリカ国境から15マイル (24 km) 北に農場を所有していた[4]:4。長らくアーサーが実際にはケベック(現在のカナダ・ケベック州)で生まれ、一家は後にフェアフィールドに移住したのではないかという疑惑があった。アーサーがカナダで生まれたならば、生粋の米国民ではない(米国民であるためには、米国内で生まれなければならないと法を解釈する)ため大統領あるいは副大統領に就任する資格がないと考える者がいた。1880年アメリカ合衆国大統領選挙において、アーサーは副大統領候補として出馬したが、政敵はこれらの噂を調査するためにアーサー・P・ヒンマンというニューヨークの弁護士を雇った。ヒンマンはアーサーがアイルランドで生まれ、14歳になるまでアメリカ合衆国に移住していなかったと申し立てた。その説が信用されなかったため、ヒンマンはアーサーがカナダで生まれたという新しい説を主張した。この主張も耳を傾けられることはなかった[4]:202-203。しかしながら、幾人かはそれを疑っている。 どのような場合でも、アーサーの父親はアーサーが生まれてから数年間帰化せず、そのためアーサーは二重国籍を持つこととなった。
チェスターの少年だったときに、あなたは雨の後の村の通りで、道を横切る流れで泥のダムを造っている子どもたちの中に彼を見るかもしれない。すぐに彼が一人に石を持ってくるように命じ、もう一人には棒を、別の者に芝と泥でダムを仕上げるように命じるだろう。そして彼らはそのことに疑問を感じないだろう。しかしチェスターは自らの手に土を乗せないように細心の注意を払った。(New York Evening Post, 1900年4月2日)