ダニエル・ケン・イノウエ (Daniel Ken Inouye 、日本名:井上 建 〈いのうえ けん〉、1924年 9月7日 - 2012年 12月17日 )は、アメリカ合衆国 の政治家 、軍人 。元アメリカ陸軍 将校 、アメリカ合衆国上院 議員、アメリカ合衆国上院仮議長 。
1963年 から50年近くにわたって上院議員に在任していた長老議員であり、上院民主党の重鎮議員の1人であった。2010年 6月28日 に最古参であったロバート・バード 上院議員が死去したことで、上院で最も古参の議員となり、またこれに伴い慣例に沿うかたちで上院仮議長に選出、亡くなるまで同職にあった。上院仮議長は実質名誉職ではあるものの、大統領継承順位 第3位の高位であり、アメリカの歴史上アジア系アメリカ人 が得た地位としてはカマラ・ハリス の副大統領 (第1位)に次ぐ上位のものである[ 3] 。また第二次世界大戦 時はアメリカ陸軍 に従軍し、数多くの栄誉を受けた。アメリカ陸軍での最終階級 は陸軍大尉 。
イノウエは、ハワイ州 共和党員ハイラム・フォン に次いで2人目のアジア系アメリカ人 上院議員 となった。日系アメリカ人 として初めて米国下院議員 を務め、また日系アメリカ人として初めて米国上院議員を務めた。また、年功序列のため、 2010年6月29日のロバート・バード 氏の死去を受けて上院仮議長 に就任し、大統領継承順位では副大統領 、下院議長に次ぐ第3位となった。亡くなった時点で、イノウエは現職米国上院議員としては最高齢であり、現職上院議員としては2番目に古い(ニュージャージー州 出身のフランク・ローテンバーグ より7か月半若い)。
イノウエは死後、大統領自由勲章 および桐花勲章 を受章した。他の公共施設 の中でも、ホノルル国際空港はその後、彼の記憶を記念して「ダニエル・K・イノウエ国際空港 」と改名された。
生涯
大学進学まで
父は福岡県 、母は広島県 出身[ 4] [ 5] [ 6] 。ハワイ 生まれの日系二世 [ 5] 。父・井上兵太郎は1899年 (明治32年)9月28日 に福岡県八女郡 横山村 (後の北川内町 、上陽町 を経て現在の八女市 )から両親浅吉・モヨとともにアメリカ合衆国ハワイ準州 に移住[ 4] [ 5] [ 注 1] 。母・かめ(旧姓: 今永)は両親とともに広島県 高田郡 三田村 (現在の広島市 安佐北区 )からハワイに移住した[ 4] [ 5] [ 7] 。
ダニエル・イノウエは1924年(大正13年)にアメリカ合衆国ハワイ準州 ホノルル で生まれる[ 5] 。イノウエはホノルルに育ち、ハワイ大学マノア校 に進学した。
第442連隊の英雄
陸軍中尉時代のイノウエ
ハワイ大学在学中の1941年 12月に日本軍 による真珠湾攻撃 が行われ、アメリカが第二次世界大戦 に参戦した後、ハワイでの医療支援活動に志願、その後アメリカ人としての忠誠心を示すためにアメリカ軍 に志願し、アメリカ陸軍 の日系人 部隊である第442連隊戦闘団 に配属され、ヨーロッパ 前線で戦う[ 8] 。
イタリア におけるドイツ国防軍 との戦いにおいて、1945年 4月21日 に少尉に昇進していたイノウエが小隊を率いてドイツ軍の堅固な防衛線を攻撃した際、36メートルほどの至近距離から三挺の機関銃から射撃を受けた。イノウエは腹部に銃弾を受けたが、手榴弾と短機関銃で二挺を撃破し、倒れ込んでもなお攻撃を続けた。イノウエが最後の機関銃座ににじり寄り、手榴弾を投げ込もうとして右腕を振りかぶったところ、ドイツ軍兵士が発射した小銃擲弾 がその右腕に命中、炸裂はしなかったものの、腕はわずかな腱や皮膚を残して切断寸前となった。イノウエの手榴弾は安全ピンが抜かれてはいたが、右手の指が安全レバーを握りしめた状態だったため未発火であった。
戦友たちはイノウエを助けようとしたが彼はそれを押しとどめ、右手の手榴弾を左手でもぎ取り、機関銃座の銃眼に投げ込んで炸裂させた。その後、千切れかけた右腕をぶら下げたまま、イノウエは左腕一本で短機関銃を操ってなおも戦闘を続けたが、左足にも負傷して昏倒した。
野戦病院で右の下腕を切断され、後送された彼は1年8ヶ月に亘ってミシガン州バトルクリーク のパーシー・ジョーンズ陸軍病院に入院したものの、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から英雄 としてたたえられる。なお同病院は2003年に、イノウエら3名の負傷兵の名を冠して「Hart-Dole-Inouye Federal Center」と改名された。彼は軍務を続け、1947年 に陸軍大尉として名誉除隊 した。しかし右腕を失ったことにより、当初目指していた医学 の道をあきらめた。
除隊後
ハワイ大学 に復学して政治学を専攻し、1950年 にBachelor of Arts in political science を得て同大学を卒業した。卒業後、ジョージ・ワシントン大学 の法科大学院に進学し、1953年 にJ.D. を授与された。
1954年 に同じく退役軍人のエルトン・サカモト、サカエ・タカハシらとセントラル・パシフィック・バンク を設立した[ 9] [ 10] 。
日系人初の上下両院議員
ジョン・F・ケネディ 大統領とイノウエ(1962年)
その後は政界に進出し、1954年 には準州であったハワイ議会の議員に当選した。1959年 には民主党 からハワイ州選出の連邦下院 議員に立候補し当選し、アメリカ初の日系人議員となる。初登院の際、下院議長が通例通り「右手を挙手して宣誓の言葉を続けてください」と言ったが、イノウエは左手を挙げた。議事録には「右手がなかったのである。第二次世界大戦で、若き米兵として戦場で失くしたのだ。その瞬間、議会内に漂っていた偏見が消え去ったのは、誰の目にも明らかであった」との記録がある[ 11] 。同年、来日した際に時の首相岸信介 とも会談し、「日系アメリカ人が駐日アメリカ大使として赴任する時が来たのではないか」という意見を述べたが、岸には否定された[ 12] [ 13] 。
Following that silence, the Prime Minister said that at the present time there were many sons of noble families in the Foreign Ministry, and it might be difficult for Japanese Americans to work with some of them. Furthermore, he added, "I hope you will understand that most of the Japanese left Japan to go to a strange land like Hawaii or Brazil to work in the fields, because they were failures. In other words, they could not make a living in Japan. I am certain if they were successfully working and supporting a family in Japan, they would not have left. Very few successful men and women leave home for a strange place, not knowing what to expect."
【日本語訳】 沈黙の後、岸 首相は、現在の外務省 には華族の子弟が多く、彼らと日系アメリカ人が仕事をするのは難しいかも知れないと述べた。さらに首相はこう続けた。「ご理解いただきたいのですが、日本を去ってハワイやブラジルで農業をすることを選んだ人たちの多くは、〔日本国内では経済的に〕失敗者でした。言い換えると、彼らは日本で生計が立てられなかったのです。もし彼らが日本国内で良い職を得て家族を養うことができていれば、彼らは日本を離れなかったでしょう。〔国内で〕成功した人は、何が起こるかわからないのに故郷を離れて異国に出て行こうとはしないものです。」 — グレン・S・フクシマ の講演[ 13] で引用されているダニエル・イノウエの回想。 日本語訳は引用者作成、角括弧〔〕内は訳出時の補足。
その後、1963年 には上院議員となり、戦時補償法の制定などに尽力する傍ら、1973年 にはウォーターゲート事件 、1987年 にはイラン・コントラ事件 の上院調査特別委委員長となり注目を浴びる。
アメリカ軍の予算に大きな権限を持つ、上院歳出委員会国防小委員会の民主党長老議員として、エリック・シンセキ 大将の陸軍参謀総長就任に尽力している。
議員として
民主党の上院議員として上院歳出委員会の国防小委員会で上級委員を務めたほか、カリフォルニア州 ロサンゼルス の日本人街 リトル・トーキョー にある全米日系人博物館 の理事長も務めた。
2000年 6月21日に、陸軍殊勲十字章 、ブロンズスターメダル の受賞理由が見直され、軍人に贈られる最高位の勲章である名誉勲章 を受章したほか、2007年 11月、フランス 政府からレジオンドヌール勲章 (シュヴァリエ)を授与された。
2008年アメリカ合衆国大統領選挙 においては、ヒラリー・クリントン 上院議員を支持した。2010年の中間選挙 にて民主党は上下院共に苦戦を強いられたが、再選を果たした。1980年代に、日米間の貿易摩擦 が政治問題化した際には、リチャード・ゲッパート (英語版 ) などと共に、対日批判の急先鋒として立ち回った。2006年に57年連れ添った前妻マーガレット・"マギー"・アワムラ・イノウエと死別[ 1] 。2008年5月に、全米日系人博物館 初代館長・米日カウンシル 初代会長のアイリーン・ヒラノ と再婚した[ 2] 。
慰安婦問題
2007年 には、中国 や韓国 が主張する「慰安婦 強制連行説」に立脚するアメリカ合衆国下院121号決議 については、大日本帝国軍人による慰安婦への暴行抑圧は疑いの余地はなく、日本国政府 の6人の内閣総理大臣 と2つの衆議院 決議が、1994年 以来問題を認め謝罪を行ってきたことを尊重するべきであるとして、対日外交の継続性の観点から新たに謝罪を求めることに反対した。
広島市との関係
2002年5月に、4日間の日程で広島市を訪問。県とハワイ州の友好提携5周年の記念式典に出席した他、広島からのハワイ移民の歴史を紹介する企画展の開幕式に出席した。イノウエはオバマが「任期中に被爆地を訪問できれば名誉なこと」と発言したことに関し「素晴らしい」と支持を表明。「母が広島出身。この問題には敏感だ」と語っていた[ 14] 。
死去
2012年12月、ワシントンD.C. 郊外のメリーランド州 ベセスダ にあるジョージ・ワシントン大学附属病院 (英語版 ) に入院し、酸素吸入の処置を受けていたが、同月17日17時過ぎ、呼吸器合併症のため死去[ 15] 。88歳没。生前、「ハワイと国家のために力の限り誠実に勤めた。まあまあ、できたと思う」と述べ、最後の言葉は「アロハ (さようなら)(また現地では"愛してる")」だった。
死去に際して、バラク・オバマ 大統領 は「真の英雄を失った」「彼が示した勇気は万人の尊敬を集めた」との声明を発表したのに続き、レオン・パネッタ 国防長官 、ヒラリー・クリントン 国務長官 、上下両院の軍事委員長らが相次いで功績を称えた[ 16] 。同月20日、遺体を納めた棺がアメリカ合衆国議会議事堂 中央にある大広間に安置され、追悼式典が開かれた。大広間に遺体が安置されるのは、エイブラハム・リンカーン 、ジョン・F・ケネディ など一部大統領や、ごく少数の議員に限られており、イノウエは全体でも32人目、かつアジア系の人物としては初めて大広間に遺体が安置された人物となった[ 17] 。
日本 の野田佳彦 首相 はイノウエの妻であるアイリーン・ヒラノ・イノウエ に書簡を送り[ 18] 、藤村修 官房長官 は「在米日系人社会の結束を強化するなど、日系関係の発展に尽力され、その功績は言葉では言い尽くせない。ご遺族、米国政府、米国民の皆さまに心から哀悼の意を表したい」と弔意を表した[ 19] 。
没後の動き
2013年 5月24日、アメリカ海軍 の新造アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 の艦名が「ダニエル・イノウエ (DDG-118) 」に決定したと発表された[ 20] [ 21] (2021年12月、就役[ 22] )。8月、大統領自由勲章 追贈。
2017年 4月27日 に、ホノルル国際空港の正式名称が「ダニエル・K・イノウエ国際空港 (Daniel K. Inouye International Airport, HNL) 」に改称[ 23] [ 24] 。日系アメリカ人の名前が空港名に冠されたのは、「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港 (2001年 改称)」に次ぐ事例である。
イノウエの父の故郷である八女市はその功績を讃え、同市上陽町のホタルと石橋の里公園内に、国内外からの寄付金をもとにイノウエの胸像 を建立し、2021年 3月18日 に除幕式が行われた[ 25] 。2024年 4月25日 には、同公園付近にイノウエの生い立ちや功績を紹介する「ダニエル イノウエ ミュージアム」が開館した[ 26] 。付近にはアメリカから寄贈されたハナミズキ が植樹されている。
名誉勲章
イノウエが受章した、軍人に贈られる最高位の勲章・名誉勲章 (Medal of Honor)への感状には下記のように記されている。
ダニエル・K・イノウエ少尉は1945年4月21日、イタリアのサン・テレンツォ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。重要な交差点を守るべく防御を固めた稜線を攻撃している間、イノウエ少尉は自動火器と小銃から浴びせられる射撃をかいくぐって巧みに自身の小隊を指揮し、素早い包囲攻撃によって大砲と迫撃砲の陣地を占領し、部下達を敵陣から40ヤード以内の場所にまで導いた。掩蔽壕と岩塊からなる陣地にこもる敵は、3丁の機関銃からの十字砲火により友軍の前進を停止させた。
イノウエ少尉は自らの身の安全を完全に度外視し、足場の悪い斜面を最も近くにある機関銃から5ヤード以内の位置まで這い上がり、2個の手榴弾を投擲して銃座を破壊した。敵が反撃を仕掛けてくる前に、彼は立ち上がって第2の機関銃座を無力化した。狙撃手の弾丸によって負傷するも、彼は手榴弾の炸裂によって右腕を失うまで、至近距離で他の敵陣地と交戦し続けた。激しい痛みにもかかわらず彼は後退を拒否して、敵の抵抗が破れ、部下達が再び防御体勢に入るまで小隊を指揮し続けた。
攻撃の結果、敵兵25名が死亡し、8名が捕虜となった。イノウエ少尉の勇敢かつ積極的な戦術と不屈のリーダーシップによって、彼の小隊は激しい抵抗の中でも前進することができ、稜線の占領に成功した。イノウエ少尉の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍の最も崇高な伝統に沿うものであり、また、彼自身やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな栄誉をもたらすものであった。
栄典・エポニム
著書
『上院議員ダニエル・イノウエ自伝 ワシントンへの道』イノウエ, ローレンス・エリオット 森田幸夫 訳 彩流社 1989(原題:Journey to Washington )
論文
脚注
注釈
^ 1899年に井上家3軒を含む火事の火元とされ、その弁済のためにハワイへ移住することとなった。後の1922年(大正11年)に全額返済。
出典
関連項目
外部リンク
英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
アメリカ合衆国上院
先代ロバート・バード
アメリカ合衆国上院仮議長 2010 - 2012
次代パトリック・リーヒ
先代オレン・E・ロング 民主党
ハワイ州選出上院議員(第3部) 1963年1月3日 – 2012年12月17日 同職:ハイラム・フォン ,スパーク・マツナガ ,ダニエル・K・アカカ
次代ブライアン・シャッツ 民主党
アメリカ合衆国下院
先代ジョン・A・バーンズ (ハワイ準州選出の下院代議員)
ハワイ州選出下院議員 ハワイ州全州区 1959年 8月21日 - 1963年 1月3日
次代スパーク・マツナガ トーマス・ギル
党職
先代オレン・E・ロング
ハワイ州選出上院議員(第3部) 民主党 候補 1962, 1968, 1974, 1980, 1986, 1992, 1998, 2004, 2010
次代ブライアン・シャッツ