ジョン・シプリアン・フィップス・ウィリアムズ(英語: John Cyprian Phipps Williams、1922年11月16日 - 1978年?)は、ニュージーランドの医師。循環器系の専門医であり、現在のウィリアムズ症候群の症例を初めて報告し、その名前の由来にもなった[1]。
経歴
ニュージーランドのウェリントンに生まれ[1]、1945年にニュージーランドのヴィクトリア大学ウェリントンで学士(理学)を[1][2]、1947年に同校で学士(文学)を取得した[1][3]。その後、ダニーデンのオタゴ医科大学で医学を学び、1953年に卒業した。1954年から1955年まではオークランド病院の研修医として勤務し、テムズ病院での勤務を経て、1956年から1962年までオークランド病院とグリーンレーン病院に勤務した。
1961年に自分の名前を冠した症候群に関する論文を発表したのは、研修医として勤務していたこの時期だった。「低身長で妖精のような顔立ちをしており、心臓に問題を抱え、非常に友好的で、認知障害を持つ若い患者のグループ」に注目した。
失踪
ウィリアムズは1967年にロンドンに滞在中、ニュージーランド人の詩人ジャネット・フレイム(英語版)と知り合い親密な関係になった。2年後にフレイムがイギリスを訪れた際、ロンドンのウィリアムズのアパートに滞在した。その間にウィリアムズは彼女にプロポーズしたが、フレイムは結婚を期待していなかったし望んでもいなかった[4]。約1週間後に彼女がロンドンに戻ると、ウィリアムズは姿を消しており、その後の彼の動向はほとんど知られていない[4]。
友人や同僚たちはヨーロッパでウィリアムズに会っており、最後の機会は1970年代半ば、オーストリアのザルツブルクだった[1]。1972年にユタ州の病院での職を一旦引き受けたが辞退したほか[1]、1979年にはパスポートの更新などの動きがあったとされる[4]。彼の姉妹の要請でインターポールが捜索を試みたが失敗し、1988年にニュージーランド高等裁判所はウィリアムズを「1978年に死亡したと推定される行方不明者」と認定した[1]。
しかし、作家のマイケル・キングによると、2000年1月にウィリアムズから間接的に連絡があり、キングによるジャネット・フレイムの伝記の中でウィリアムズについて "言及 "しないよう求められたという[1][5]。以降の消息は不明である。
脚注