オルタンシウス・エミール・シャルル・クロス(Hortensius Émile Charles Cros)として、南仏オード県のファブルザンの町で、祖父、父ともに教授という学者の家系の三男に生まれる。学校には行かずに父の家庭教育によって、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語、サンスクリッド語、ヘブライ語や、数学、化学、哲学、医学、音楽などを学んだ。のちに長兄は医者、次兄は彫刻家となる。18歳の時にパリの聾唖学校の教師となるが、2年後に解雇。独学で医学を学びながら、文学仲間と付き合うようになる。
その後パリ・コミューンにより軍医として任命され、負傷者の治療にあたる。クロスは画家のペテーヌとともにセギエ街のアパルトマンを借りて移っていたが、コミューン敗退後の1871年9月にヴェルレーヌとともにアルチュール・ランボーに対面し、一時期ランボー少年はクロスの部屋に同居、わずかの後に仲違いして出て行くことになる。またこの10月にはヴィヤール夫人のサロンの高踏派詩人らのグループ「破廉恥漢たち(fr:Vilains Bonshommes)」の中で先鋭的で、コミューンにも同調する者達による、新集団「セルクル・ジュティック(fr:Cercle des poètes Zutiques)」を組織する。これにはヴェルレーヌ、ランボーなども加わり、最年長の音楽家エルネスト・カバネルの部屋に集まっていたが、指導的立場だったクロスは1ヶ月で脱退する。
1872年の『文芸復興』誌に「燻製にしん」が発表されると評判になり、独特の「Il était un grand mur blanc — nu, nu, nu,」のような表現が流行した[2]。1873年に詩集『白檀の小箱』が刊行され、「燻製にしん」もこれに収められる。「燻製にしん」は、包囲下のパリである日リラダンが一匹の燻製ニシンを持ってヴェルレーヌ家を訪れ、そこに来たクロスがこのニシンを天井から吊るし、それを眺めながら作ったと言われている。